産科医療補償制度とは、生まれた赤ちゃんが脳性麻痺になった場合の経済的負担を補償し、原因を分析するとともに同様の事例が再発することを防ぐための制度です。この制度の実現に尽力してこられた社会福祉法人恩賜財団母子愛育会 総合母子保健センター 愛育病院 院長の岡井崇先生に、産科医療補償制度とその元になった「無過失補償制度」の考え方についてお話をうかがいました。
私が産婦人科医療にかかわる社会問題に取り組むようになったのは、平成12年(2000年)に昭和大学医学部の産婦人科学講座に教授として着任してからのことです。かつて在籍していた東京大学に比べると、昭和大学は産婦人科学教室の医局員、つまり産婦人科の医師が少なかったのですが、その当時はちょうど初期研修の必須化という新しい制度が重なったこともあり、医局員の人員がますます足りなくなることに頭を悩ませていました。
その頃、国政の場で産婦人科の医師不足という問題を取り上げてくれたのが、医師でもある公明党の坂口力厚生労働大臣でした。厚生労働省が「小児科産科の若手医師の確保・育成に関する研究」という班会議を立ち上げ、私はそのメンバーに選ばれて産科の医師不足の原因を調べることになりました。私が社会活動に関わるようになったのはそのことがきっかけだったのです。
アンケート調査などを行って調べてみたところ、若手医師の間にも産婦人科を選びたいというポジティブな動機はそれなりにあるのですが、逆にネガティブな要因、なぜ産婦人科医になりたくないのかという一番の理由は「当直が多いこと」、つまり過重労働だということでした。そして二番目が「訴訟が多いこと」だったのです。私はこの2つの理由のうち、訴訟が多いのはなぜなのかということを考え、少しでも解決する方法はないかということを調査していく中で、「無過失補償制度」というものがあることを知りました。
無過失補償制度とは、医療を受けた結果、患者さんが亡くなったり後遺症が残ったりした場合、医療者側の過失の有無に関係なく補償金が支払われるという制度です。これまでの日本の制度では医療事故が起こった場合、患者さんやご遺族は裁判で訴えて医療者側の過失を認めさせない限り、補償を受けることができませんでした。しかし無過失補償制度の下では、患者さんやご遺族は裁判を起こすことなく経済的な補償が得られ、医療者側にとっては医療訴訟が減少するというメリットがあります。スウェーデンやフランス、ニュージーランドなど実施している国がいくつかあります。
私は産婦人科の医師不足の根底にある訴訟の問題を踏まえ、日本にも無過失補償の制度が必要だという考えを厚生労働省の研究班にも伝えました。しかし、そのことに対する反応は薄く、課題として取り上げられることはありませんでした。
(参考リンク:厚生労働省ホームページ「小児科産科若手医師の確保・育成に関する研究」報告書の公表について)
そこで私は自分が思っていることをなんとか社会にアピールしたいと考え、産婦人科医を主人公にした最初の小説「ノーフォールト」を書こうと思い立ったのです。それがたまたまうまくいき、「ノーフォールト」を原作としてテレビドラマも制作されました。もちろん、原作とドラマの脚本は別物ですから、私が考えていたことがすべて反映されたわけではありませんが、産婦人科医の仕事がどのようなものなのかということはある程度伝わったのではないかと考えています。
私は産科医療訴訟の問題に取り組んだ経緯もあって、日本産科婦人科学会の中に医療安全委員会を作るよう働きかけ、初代の委員長を務めることになりました。その頃、「妊婦たらい回し事件」と「大野病院事件」という社会的にも大きな事件が起こり、私は医療安全委員会の委員長として日産婦学会の理事会から全権を委任され、先頭に立って対応しました。
出産・分娩は病気ではありませんから、赤ちゃんは普通に生まれてくるのが当たり前だと思われがちですが、実は出産にはさまざまなリスクが伴います。元気に生まれてよかったと思っていたらなかなか出血が止まらないということもあります。大病院であればすぐに輸血もできますが、小規模な分娩機関では人手もありませんし、手配してもすぐに輸血ができるわけではありません。
胎児の状態についても、さっきまで問題がなかったのに急に悪くなってしまうことがあります。赤ちゃんを一刻も早く出してあげなければならない場合、我々はカイザーグレードAと呼ばれる超緊急帝王切開術を行いますが、一般の施設ではそれもままなりません。
訴訟に発展する原因として特に対策が急がれていたのは、分娩に関わる脳性麻痺でした。私は無過失補償制度の導入を求めてその後も関係団体に働きかけていましたが、さまざまな紆余曲折を経て、現在の日本産婦人科医会の会長である木下勝之先生のご尽力により2009年1月、産科医療補償制度が創設されました。
産科医療補償制度の目的をまとめると以下の3点になります。
産科医療補償制度に加入している分娩機関で生まれた赤ちゃんが重度脳性麻痺になった場合の補償金額は3,000万円です。欧米の無過失補償制度に比べれば、補償金額ももっと厚くしていきたいところですし、本当に私が理想としているものが実現できたとはいえませんが、それでも日本で初めて無過失補償制度に近いものができ、これまでにも大きな成果が上がっています。
それは補償の面だけではありません。脳性麻痺発症の原因分析が行われたことについて、出産を扱う病院や診療所、助産施設などいわゆる分娩機関を対象として調査をした結果、「とても良かった」「まあまあ良かった」という回答がおよそ4分の3を占めました。このことから患者さんの側だけでなく、医療者の側も肯定的に受け止めていることがわかります。
もちろん、患者さんの側でも65%と多くの方が、この制度があって良かったと答えています。ここで大切なことは、第三者機関が評価を行っているということです。「とても良かった」「まあまあ良かった」と答えている理由で圧倒的に多かったのは「第三者によって評価が行われたこと」でした。それこそが制度を信頼してくれている理由なのだと考えています。
産科医療補償制度では、補償対象と認定した重度脳性麻痺のすべての事例が原因分析の対象となります。原因分析を公平かつ中立的な立場で適正に行い、当事者だけでなく国民にとってもわかりやすく信頼できる内容の報告書とするために、産科医だけでなく新生児科医を含む小児科医や助産師、法律家や医療を受ける立場の有識者から構成される原因分析委員会で審議が行われています。私は原因分析委員会の委員長として、そのすべてをチェックしてきました。
制度が始まって間もない頃は、ある意味医療の質が低いことが原因となる事例も散見されました。しかし、そういった事例は確実に減っています。それはなぜかというと、原因分析報告書がその事例のあった分娩機関へ送付され、再度同じことが繰り返されないように注意喚起をしているからです。この報告書は脳性麻痺になったお子さんとその保護者の方にも送られるとともに、個人情報に留意の上公表しています。
このような取り組みはこれまで日本の医療界にはなかったことであり、そのためごく一部に反対の声があることも事実ですが、結果として医療のレベルが向上し、実際に脳性麻痺の件数も減っています。もちろん脳性麻痺を完全になくすことはできてませんが、今なお残っているのは非常に対応が難しい症例ばかりだといってもいいでしょう。そのことに伴い、訴訟の件数も減ってきています。
最終的にはいかに医療事故を防いでいくかということがもっとも大切なのですが、そのためには事故が起こった後の対応というものが極めて重要だということなのです。
社会福祉法人恩賜財団母子愛育会 総合母子保健センター 愛育病院 院長
日本産科婦人科学会 産婦人科専門医
厚生労働省「小児科・産科の若手医師の確保と育成に関する研究班」で産科医不足の原因分析に従事したことから、産科医療をめぐる問題を題材にした小説を発表、「ノーフォールト」「デザイナーベイビー」はテレビドラマ化されている。また、産科医療補償制度原因分析委員会委員長として分娩時に発生する脳性麻痺の原因分析に尽力した。