記事1「産科医療補償制度とは-赤ちゃんが脳性麻痺になった場合の経済的負担の補償と再発防止のための制度」では産科医療における医療安全の取り組みとして「産科医療補償制度」を取り上げました。その後、この制度を先行事例として医療事故調査制度が創設され、2015年10月にスタートしました。この記事では社会福祉法人恩賜財団母子愛育会 総合母子保健センター 愛育病院 院長の岡井崇先生に引き続きお話をうかがい、医療事故を防ぎ医療の質を向上させるためのポイントや、現行の医療制度におけるさまざまな問題点などついて語っていただきました。
医療安全の問題は、私がライフワークとして残りの人生の中で一番大事にしていきたいと思っているテーマです。記事1でも申し上げたように、産科医療補償制度は次の3つの目的のために設立されました。
このうち2つ目の原因分析は、医療者の責任を追及することを目的とするのではなく、「なぜ起こったか」などの原因を明らかにするとともに、同じような事例の再発防止を提言するためのものです。
厚生労働省令第百号(医療法第6条の10他の施行規則の一部を改正する省令)により2015年に医療事故調査制度というものができました。この制度における「医療事故」の範囲は、「医療従事者が提供した医療に起因し、又は起因すると疑われる死亡又は死産」であり、かつ「当該管理者が当該死亡又は死産を予期しなかったもの」です。この2つを満たす場合が報告の対象となります。一般社団法人日本医療安全調査機構が医療事故調査・支援センターとして運営を担います。
「医療に起因する」というのは、たとえば手術などもそうですし、投薬ミスや必要な検査をしなかったということなども含まれます。そして、「予期しなかった死亡」は届け出なければならないということになりました。この医療事故調査制度が実際にスタートしたのは2015年の10月のことですが、ようやくそういった制度ができたことによって、少しずつ日本の医療安全文化が進んできたということを実感しています。
医療事故は誰も起こそうと思って起こしているわけではありません。一生懸命やっていても人間ですから間違えることもあれば失敗もします。もちろん、誰もが失敗するわけではありませんが、普通の会社であれば会社に損害を与えることはあっても、目の前で人が亡くなるということはありません。
しかし医療というものは、間違えれば本当に目の前で人が亡くなるという非常に特殊な状況であるため、一般的な仕事におけるミスや事故とは異なる考え方をすべきです。その結果、不幸にして亡くなられたり重い障害が残ったりした場合、あくまでも社会全体で金銭的に支えるというのが無過失補償制度です。そして事故を起こした人に関しては、刑事的な責任を問うとか、民事的にお金をいくら支払えといったことではなくて、医療者として至らなかったところを直していくという方向で進めていくべきだという考え方なのです。
産科医療補償制度では、事故原因分析の中で行う医学的評価にあたっては、今後の産科医療のさらなる向上のために、事象の発生時における情報・状況に基づき、その時点で行う妥当な分娩管理等は何かという観点で、事例を分析するという考え方をとっています。すなわち、裁判をして賠償責任を負うような過失の有無を評価するのではなくて、あくまでも医療ひとつひとつの行為に対する妥当性の評価であるということです。
たとえばスウェーデンでは脳性麻痺に対して補償される金額は約1億5千万円と、日本とは桁違いの制度になっていますし、ニュージーランドでは国内での事故・死亡に対する補償を目的としたACC (Accident Compensation Corporation)という制度があります。また、学校や公共施設で死亡事故が起こった場合、日本では管理者が刑事責任を問われることがよくありますが、そういった場合の賠償責任を問わないようにしている国もあります。
つまり、被害者や遺族に対してはまず社会全体で補償をし、そのあとの責任の取り方については業種によって、あるいは国ごとに異なる部分がありますが、基本的にはその事故を起こした人に対して、損害賠償を請求したり刑事責任を追及するということはしないという考え方なのです。
いずれにしても、本当の原因は何なのかということは第三者機関がしっかりと検証する必要があります。今回スタートした医療事故調査制度でも、調査結果の報告という部分が非常に重要です。本来ならば産科医療補償制度における原因分析委員会のように、医療事故調査・支援センターが第三者として分析をするところまで踏み込むべきなのでしょうが、当面はまず院内調査を行い、必要な場合は医療事故調査・支援センターによるセンター調査が行われるという流れになっています。
おそらくこれは最終的に第三者機関が調査をするという形に持って行くまでのワンステップなのだろうと考えています。今後、段階を踏んで少しずつ進めていくことになるのではないでしょうか。たとえば、産科医療補償制度における脳性麻痺のような金銭的な補償はまだ制度に組み込まれていません。その点も今後の課題のひとつであるといえます。
医療事故調査制度の下では、今後さまざまなデータが出てくるでしょう。たとえば、似たような名前の注射薬を間違えたというような事例などが上がってくればそれに対応し、改善すべき方策が明らかになってくるという様なことが進むと思われます。
現在も日本医療機能評価機構がそういったことを行っていますが、今回創設された医療事故調査制度では、再発防止策を提示することが医療事故調査・支援センターの役割になっています。制度が浸透するにつれて、ひとつひとつの医療施設で「これは気をつけよう」ということが積み重なっていき、最終的には医療事故が減少していく方向に進むことを期待しています。
第三者機関が本当に公正・中立の立場を守って原因分析を行い、それに基づいて再発防止委員会などが広く医療界に問題点や注意点を啓発していくということを継続できれば、日本の医療安全に大きく寄与することは間違いないと思っています。
医療事故の問題はまだ片付いたわけではありませんし、今後もさらに進めていき、医療安全文化を確立していかなくてはいけないと考えています。しかしその一方で、他にも気になっていることがいくつかあります。私は日本産婦人科医会の記者懇談会で、いくつかの問題をテーマに記者の人たちと議論をしてみようと考えています。そのひとつはこれまで申し上げた医療事故調査制度の問題ですが、もうひとつは専門医制度の問題、そして3つめは日本の皆保険制度を今後も維持できるのかという問題です。
私が2015年に上梓した最新作「トライアングル」は、日本の皆保険制度に対して改革が断行された近未来を舞台にした小説となっています。すでに人口構成では若い人たちが減って高齢者が増えているため、かつてない勢いで医療費が増大しています。日本では今はまだ所得の多い人も少ない人も基本的に同じレベルの医療を受けられますが、こんな国は世界にもほとんどありません。
医薬品についても非常に高価な薬が出てきています。これがすべて保険適用になれば財政はもたないでしょう。保険制度ですから、私たちみんなが払っている保険料の中から病気になった人の医療費を負担しているわけですが、そのうちの3分の1は足りなくなって政府が税金から払っています。今は11兆円、12兆円といわれていますが、いずれ20兆円、30兆円の規模に達するのも時間の問題です。それを一体どうすればいいのでしょうか。
私は将来的にはいよいよアメリカのようになるのではないかという気がして仕方がありません。それをなんとか食い止めたい、そういうことを考えているときに書いた小説が「トライアングル」です。その「あとがき」の中でも触れていますが、皆保険制度を維持しながら医療の質を向上させていくためのひとつの鍵となるのが専門医制度の問題です。
日本の専門医制度はまだ本当の意味で確立されているとはいえません。専門医制度は現在、学会がそれぞれ独自に制定しているものでしかなく、厚生労働省が認めているわけではありません。2002年4月1日付の医療機関の広告規制の緩和に伴い、医師又は歯科医師の専門性に関し、告示で定める基準を満たすものとして厚生労働大臣に届出がなされた団体の認定する資格名が広告できることとなりました。つまり、それぞれの学会が定める専門医の基準を満たせば、名刺の肩書きに書いたり宣伝したりすることを認めたのです。
しかし多くの国ではそうではありません。専門医は国や行政機関が認めているものであり、専門医になる段階で何かしらの規制を行っています。特定の診療科にばかり医師数の偏りが出ては困るため、専門医制度によって調整をするというという側面があるのです。一方、日本では医師になるプロセスだけは政府で規制していますが、それ以外は野放しになっています。日本は医者になってしまえば何でもできる、つまり医師の権限が強すぎるのです。
これまでは医療提供サイドが行政に積極的に協力してこなかったという面があり、時に非効率的な病院の配置も行われてきました。施設の規模が小さいとどうしても効率が悪くなりますが、その問題は記事1の冒頭で申し上げた産婦人科の医師不足や当直の多さという問題にもつながっています。
たとえば、年間200件ぐらいしかお産がないような分娩機関であっても、誰か1人は当直をしなければいけないわけですが、ひとつの施設で600件お産をしても当直医は1人で済みます。それならば分娩件数600件の施設がひとつあったほうが医師の数は少なくて済みます。つまり、ハイボリュームセンターにした方が効率はよいということになります。また、設備についても同じことがいえます。分娩件数200の病院が3つあれば同じ機械を3つ置かなければなりません。そういった面での効率化も考えていく必要があります。
また終末期医療も大きな問題です。超高齢化社会を背景として終末期医療に多額のお金が使われています。このことについてはメディアにも本気で取り上げてほしいと考えています。たくさんの医師がいれば、中にはいろいろな考え方の医師もいるでしょう。しかし、構造的に営利優先にならないように留意しながら、いかにお金をかけずに質の高い医療を提供できるかという意味で、効率化をもっと進めなければならないと考えています。
それでもなお、医療技術の進歩に伴って再生医療や新しい抗がん剤などお金のかかる医療が次々に生まれてきています。これらの医療費を保険から賄うのかどうか。非常に高額な抗がん剤も出てきている状況で、そういった問題を今後どのようにしていくのか、それらを本気で考えなければならないということを社会に訴えていくことも私の使命のひとつであると考えています。
社会福祉法人恩賜財団母子愛育会 総合母子保健センター 愛育病院 院長
日本産科婦人科学会 産婦人科専門医
厚生労働省「小児科・産科の若手医師の確保と育成に関する研究班」で産科医不足の原因分析に従事したことから、産科医療をめぐる問題を題材にした小説を発表、「ノーフォールト」「デザイナーベイビー」はテレビドラマ化されている。また、産科医療補償制度原因分析委員会委員長として分娩時に発生する脳性麻痺の原因分析に尽力した。