西太平洋地域でのポリオ根絶を達成し、SARSを制圧するため陣頭指揮をとった尾身茂先生は、国際感染症対策の功労者として世界的に知られています。しかし、尾身先生が取り組まれている問題は、国際感染症という一領域にとどまるものではありません。
20年間にわたりWHO日本人職員として活躍し、日本国内でもパブリックヘルスと向き合い続けたことで、客観的にみえるようになった「日本の美点と課題」とは、どのようなものでしょうか。尾身茂先生にお話いただきました。
私は1990年から20年間、WHO(世界保健機構)に籍をおき、ポリオ(小児麻痺)根絶やSARS(重症急性呼吸器症候群)制圧など、国際感染症領域の諸問題に力を注ぎました。39歳から59歳までというまさに働き盛りの時期をWHOで過ごし、特にポリオ根絶に関しては第2の青春を燃やすかのごとく、無我夢中で取り組んだものです。
しかしながら、私自身が自分という人間を考えるとき、国際感染症というある種の「枠」を設けてしまうことは、いささか窮屈であるように感じます。
というのも、私が上述の職務に全身全霊を費やしたのは、「国際感染症が自身の専門であったから」でも、「国際感染症問題に個人的な興味を持っていたから」でもないからです。
医療に関心を抱く若い方々や、今現在チームのリーダーとして何らかのミッションを担っている方々の参考になればと思い、本記事では、私を突き動かしてきた原動力たるもの、そして、自身の軸ともいえる3つの柱についてお話しします。
慶應義塾大学法学部で3年間法律学を学んだのち、自治医科大学に一期生として入学し、医師の道を進みはじめた私の経歴は、非常にユニークだといわれます。また、医師として歩んできた道のりも、一般的な医師の方々と比べるとやや異色であるように感じます。
現在、私は地域医療を支える目的で設立された組織、JCHO(ジェイコー、独立行政法人地域医療機能推進機構)の理事長を務めていますが、これは自治医科大学の卒業生であることが関係しているのかもしれません。
JCHOでの職務は、私を作る3本柱のうちのひとつであり、現在の主たる仕事でもあります。
医療に求められるものは、時代のニーズに応じて変化します。かつては急性期病院における専門家、いわゆる「名医」を充実させることが要請されていました。
しかし、高齢化が進んだ日本社会が今求めているものは、急性期医療のみではありません。多くの方が「病気と共に生きていく」時代に入り、予防のための検診、治療後のリハビリテーション、介護など、地域包括的でシームレスなサービスの拡充が急務となっています。
つまり、専門医と同時に「総合診療医」の活躍も不可欠な時代に入ったというわけです。
全国57の公的病院、26の介護老人保健施設、7の看護専門学校の舵取りを行うJCHOの役割には、総合診療医や特定看護師、地域に根ざしたメディカルスタッフの育成があります。これらの業務は私たちが個人の興味関心により独自に作り出したものではなく、地域住民の要請により生じたもの、つまり時代の流れにより自然発生的に生まれたものといえます。
JCHOでの仕事と同時に、私には国際連合が設置した国際健康危機タスクフォース(the Global Health Crises Task Force)での任務もあります。近年ではエボラ出血熱などが非常に大きな問題となり、対策のために、WHOだけでなく、国連の様々な内部機関が連携して職務にあたっているのです。
私はタスクフォースのメンバーの1人として、「グローバルヘルスの中の国際感染症対策」、そして、世界で活躍できる「グローバルな人材育成」に取り組んでいます。
感染症対策はもちろんのこと、世界を土俵とする保健人材をどのようにして育てていくかを考えることは、現在極めて重要な課題となっています。
JCHOでの仕事も国連の仕事も、まず先にパブリックニーズがあるという点で共通しています。いつの時代にも公共的な問題は途切れることなく発生するものであり、解決策を模索して実行することが、私の仕事なのです。また、私自身、新たな社会問題に対し新たな発想、手段を用い、暗中模索しながら打開していくことに「生の手応え」を感じています。
ポリオ根絶やSARS制圧など、苦労も伴う大きな仕事をやり遂げられたのも、個人的な興味や関心により始めたわけではなく、「そこに何らかの問題が存在しており、解決することが次世代のためになる」という確信を持てていたからこそであると考えます。
冒頭で、自身を「国際感染症の専門家」という枠組みで捉えることには窮屈さを感じると述べた理由も、このような考え方が自身の根底にあるからだと考えます。
現在、感染症を含むグローバルヘルスの仕事を行っているのは、過去に20年間WHOに在籍したことが関係しているのでしょう。
前項では1つ目の仕事と自治医科大学の関係に言及しましたが、私には国内と国外、それぞれに「根」があるように感じています。このことが、私を3つ目の仕事、NPO法人「全世代」の立ち上げへと向かわせました。
人生の長い期間を国内と国外で過ごすと、意識せずとも日本を「外」からみることが多くなります。国籍の記載がない国連職員のLP(パスポートのような通行証)を携帯しながら20年もの時を送っていても、やはり私の心は「日本人」のものであり、常に頭の片隅には「日本」の存在がありました。
WHO時代には、デスクで英語の新聞を読みつつ、トイレの個室で日本の新聞や雑誌に目を通し、日本の日々の出来事や潮流を把握していたものです。
このような生活を長く続けていくと、自ずと2つの視点が生まれ、日本人でありながら、日本の良さと課題点が客観的にみえるようになるのです。
日本人には、勤勉さ、我慢強さ、そして和(チーム)を大切にする心など、様々な美点があります。一方で、社会全体の問題に関しては、どこか「お上に頼る」といった風土があるように思われます。
幕末期まで遡って考察すると、近代化は自らの意志と手で勝ち取ったというよりも、黒船と共に外からもたらされたものであるといえます。
民主主義が確立され、性差や収入差なく国民皆が選挙権を持つ現代においても、やはり諸外国と比べると、日本人は政治家や行政庁に物事の取り決めを任せる傾向が強いように感ぜられます。
これは極端な比喩ですが、政治家が選挙で勝つことが、あたかも国民から白紙委任状を渡されたようなものになってしまっているとも感じます。これでは、国民が政治に満足することはありません。「投票したところで国は変わらないのではないか」と、無力感や閉塞感を感じたことがある方もいるのではないでしょうか。
しかし一方で、今の日本には、社会的な課題を解決したい、自分たちの手で未来を作っていきたいという高い志を持つ方、実際に想いやアイデアを周囲に発信している方も沢山おられます。
そろそろ過去の風潮を断ち切り、老若男女が一同に会する「市民参加型の市井会議」を開いてもよい時期なのではないかと考えます。
このような問題意識から、私は3つ目の仕事として、「全世代」という名のNPO法人を立ち上げました。私が提案する市民参加型の集まりとは、一時的にデモをしたり、政党を作るといったものではなく、主権者皆がじっくりと時間をかけて、次世代を担う若者や将来の社会のためにできることを議論し合い、実際に支援していくというものです。
「全世代」は、私一人の力や発想で始まったものではありません。前項に記した日本の課題と提案について、日経新聞の夕刊コラム欄に書き綴っていたところ、評論家の大宅映子さんがご自身のラジオ番組で取り上げてくださったのです。
これが契機となり始まった全世代には、医療関係者だけでなく、マスコミや広告会社に勤める方、アスリートの方、IT関係の仕事に従事されている方など、多様な職種、年齢、価値観を持つ人々が集まっています。
「次世代の日本社会をよくしていきたい」という想いを共にする、多彩なメンバーの知恵を集約させ、全世代では今、待機児童問題や医師の地理的偏在を解消するべく、目標と行動指針を作り、積極的に活動を展開しているところです。
記事2「待機児童問題を解消するために私たちにもできること-「全世代」での取り組み」では、全世代の具体的な取り組みについて、詳しくご紹介します。
全世代公式WEBサイトは「こちら」へ
全世代のプロジェクト【「待機児童」を減らすため「
独立行政法人 地域医療機能推進機構 理事長、名誉世界保健機関(WHO) 西太平洋地域事務局 事務局長
地域医療を担う公的病院の統括組織、独立行政法人 地域医療機能推進機構(JCHO)の理事長を務める。1990年から2009年まで20年間WHOに勤務し、西太平洋地域におけるポリオ根絶を達成したことで世界的に知られる。SARS制圧時には西太平洋地域事務局事務局長として陣頭指揮をとった。現在はWHOでの経験をもとにシームレスな地域医療サービスの拡充に取り組むとともに、NPO法人「全世代」を立ち上げ、就労や医療・介護など現代日本が抱えるあらゆる分野の社会問題解消のために尽力している。