近年、海外の医療サービスや医療技術をうけるために渡航する渡航医療が広まっています。渡航医療と同じ意味を持つ言葉として「医療ツーリズム」・「メディカルツーリズム」がありますが、これらは厳密にいうと渡航医療とはニュアンスが異なります。
そもそも渡航医療とはどのようなもので、医療ツーリズム・メディカルツーリズムとの違いはどこにあるのでしょうか。渡航医療について、北海道大学病院 国際医療部 副部長(専任・准教授)のピーター・シェーン先生に解説いただきました。
渡航医療とは「医療を受ける目的で他の国へ渡航すること」と定義されています1)。国によって医療技術、医療制度、治療費用などは大きく異なり、在住する国では望み通りの医療を受けられないことがあります。そのニーズを満たすために、海外へ渡航し、他国で治療を受ける方が増えてきています。
1)日本の観光庁による定義より
例えば日本では、質の高い医療技術をもつ上、健康保険制度が整備されているため、所得の多寡にかかわらず高度な医療を受けることができます。こういった国は非常に珍しいため、医療水準が低く高度医療を特定の病院のみでしか受けられない国の人々は、良い医療を求めて日本に来訪される方が多くいます。このような背景から、在住する国にはない医療体制・サービスを求め、海外へ渡航し治療を受けるニーズがあります。
日本政策投資銀行の資料では、渡航医療の目的の約7割は最先端の医療技術・よりよい品質の医療を受けることであると示されています。
【医療ツーリストの渡航目的】2)
最先端の医療技術 40%
よりよい品質の医療 32%
待機時間の解消 16%
低コストの医療 9%
低コストの美容整形など 4%
渡航医療ではそのほかにも、健診・検診サービス(人間ドック、各種がん検診、成人病検診 )やリハビリテーション(回復期リハビリ、心理リハビリ)などを受けることが目的になることもあります。
2)出所:日本政策投資銀行
渡航医療のニーズは、インターネットや国際交通網の発達によって拡大し続け、現在では世界約50カ国で展開されています3)。
日本において、渡航医療の学問である、渡航医学(トラベルメディスン)という考え方が知られるようになったのは1990年代からです4)。その後、日本を訪れる外国人観光客は年々増加し、さらには2020年に東京でオリンピックの開催が決まったことから、日本における海外渡航者向けの医療の重要性は高まりつつあります。
3)出所:日本政策投資銀行
4)日本渡航医学会HPより(http://jstah.umin.jp/concept.html)
2012年12月から始まった国の経済政策「アベノミクス」では、政策の柱である3本の矢のひとつに「民間投資を喚起する成長戦略」を掲げ、そのなかで世界経済との統合の推進を行うことを提唱しています。この政策の狙いは、世界に対して積極的な市場展開をすることで、世界を日本に惹きつけ、世界の経済成長を取り込んでいくことです。このような政策によって、いま国を挙げてより積極的な世界市場展開が進められているのです。
海外からの患者さんを受け入れることで、来訪された国では大きな経済効果があると考えられます。
世界における渡航医療の市場規模の概算・予測値を調べたデータでは、2008年の渡航医療利用者数は年間600万人程度、市場規模は12年に1千億ドルまで拡大すると見込まれています。また、日本への渡航医療利用者は、2020年時点で年間43万人程度の潜在的需要があると予想され、その予測を基に算出される市場規模は約5,500億円、経済波及効果は約2,800億円と試算されています5)。
5)出所:日本政策投資銀行
渡航医療は医療のインバウンドといえます。一方、医療のアウトバウンドに当たるのは日本の医療技術や医療制度を海外に輸出することだといえるでしょう。例えば日本で高い技術をもって作られた内視鏡を海外へ輸出したり、日本の医療制度を他の国で取り入れてもらうことが挙げられます。
こういった医療のインバウンドとアウトバウンドを活性化することは、経済効果が高まることだけでなく、世界の医療水準を向上することに繋がります。
欧米諸国ではすでに渡航医療の概念が確立しています。その一方で、日本において海外渡航者への医療体制が十分であるとはいいがたいでしょう。そのため、日本への渡航医療は多くの関心が集まっているにもかかわらず、医療を目的とした来日に不安を抱える方も多くいます。
現在では、欧米諸国で確立されている渡航医療も参考に、日本の渡航医療の形態が整えられてきてます。
これらはどれも患者が医療を求めて他国に移動することを指す言葉ですが、その本質的な目的や利用者層には違いがあります。
渡航医療の多くは、在住する国や地域、身分などの環境では受けることが難しい医療を、他国で受けようと考える方です。例えば20年以上前の事例ですが、サハリン州で全身に大やけどを負ってしまった男の子(当時3歳)を札幌医科大学附属病院で受け入れたことがあります。患児は100度近くの熱湯で全身の90%に大やけどを負ったものの、受診した病院の医師からは「ここでは手の施しようがない」と告げられ、輸血やビタミン剤、鎮痛剤といった治療しか受けることができませんでした。そこで当時偶然サリハンを訪れていた日本人の紹介で札幌医科大学附属病院へ搬送され、皮膚の移植手術を受けました。この対応により、当初は「あと2週間ももたない」と宣告された男の子は無事に意識を回復し、退院・帰国することができました。こういったケース以外にも、がん治療、高度な外科手術治療などを受ける目的として渡航医療を選択することがあります。
一方、医療ツーリズム・メディカルツーリズム(医療観光)では、人間ドックやがん検診などを利用する方が多く、どちらというと渡航目的の主旨は医療ではなく観光です。そのため旅行のプランには温泉や食事、自然観光などが組み込まれ、利用者も富裕層の方が多く、検診や美容医療を受けるために渡航し、そのタイミングに合わせ訪問国を楽しむことがコンセプトになっていることが多いです。
渡航医療とメディカルツーリズム、どちらの利用者もツーリストという言葉で表現されますが、両者の意味合いは大きく異なります。これらの言葉のニュアンスの差を明確に理解する人はまだまだ少ないと思いますが、しっかりと使い分けていかなければいけないところでしょう。
北海道は自然が豊かであり、食材も魅力的であることから、医療ツーリズムで訪れたいという大きなニーズがあり、北海道の病院で外国人観光客向けの人間ドックを実施してくれないかという要望は高まっています。こういったニーズに応えていくことは大切ですが、どういった医療機関がそのニーズを満たしていくかをしっかりと考えるべきだと私は思います。
例えば当院(北海道大学病院)でも、外国人観光客向けの人間ドックを実施してくれないかという要望を多数いただいています。しかし、そのような対応を積極的に当院のような大学病院で行うのは、本来の病院の存在意義から離れてしまうと思うのです。大学病院は三次医療圏(一般の病院では対応が困難で特殊な医療需要に対応する区域)及び特定機能病院としての役割を担っています。これは国内の患者さんにとっても、海外からの患者さんにとっても同様であり、三次医療圏という社会資源を脅かすことは絶対にあってはならないと考えています。そのため、医療ツーリズムのニーズに対応していくべき医療機関はどこなのか、しっかり考えていかないといけないと思います。
こういった渡航医療と医療ツーリズムのニュアンスの違いについては、まだまだ認識が不足していると思います。適切な体制のもとで医療の国際化を推進していけるよう、さらなる医療機関の体勢整備が求められると思います。
▼医療の国際化についてはこちらの記事もご覧ください
北海道大学病院 国際医療部准教授 /臨床研究開発センター国際共同開発推進室長
国際医療の発展に力を入れており、渡航医療の普及のみならず、海外医師の教育機会提供への取り組みにも尽力している。北海道大学病院の国際的知名度向上や学術交流の拡大を目指している。
ピーター・ シェーン 先生の所属医療機関