かつて、神聖な臓器として触れることが許されなかった心臓の外科手術は、今から約60~70年前に始まりました。1965年に心臓外科医として歩み始めた国立循環器病センター名誉総長・北村惣一郎先生の医師人生は、まさに心臓外科の進歩と共にあったといえます。川崎病の子どもに対する『小児冠動脈バイパス手術』を世界で初めて行い、あらゆる心臓外科手術の開発と発展をその目でみてきた北村先生は、心臓移植や再生医療以上に、補助人工心臓の改良に強い期待を抱いているといいます。心臓移植の限界と補助人工心臓の進歩により補える領域、現在日本で進められているiPS細胞を用いた心疾患治療への期待についてお話しいただきました。
心臓は、今から70年ほど前まで、医師であってもメスを入れてはいけない神聖な臓器と考えられていました。そのため、心臓外科の進歩の歴史は世界的にみても遅く、心臓停止・再開とその間の人工心肺装置の開発は難題となっていました。私が医学部を卒業した1965年頃の心臓外科は、いまだ発展途上の段階にありました。
私の医師としての人生は、心臓外科の発展の歴史とちょうど重なっており、心臓外科医としては最も面白い時期に医師としての生活をスタートできたのではないかと考えています。
今日につながる心臓外科手術がはじめて行われたのは1938年です。この年、アメリカのグロス医師により動脈管開存症の結紮術が行われ、これを契機に心臓外科手術は急速な進歩を遂げ始めました。それまで触れることさえ躊躇われていた「動いている心臓」に対する様々な手術法が開発され、ついに心臓の機能を機械や他者の心臓で代替する補助人工心臓や心臓移植の時代が到来しました。
心疾患に対する再生医療の研究や開発も進められていますが、今なされるべきは心臓移植と補助人工心臓(以下、人工心臓)の革新であると考えています。このうち、後者の人工心臓は、現在めざましい進歩を遂げています。
心臓の構造や機能は、当然ながら数年で突然に変わることはありません。そのため、加齢現象のある心臓移植の進歩には一定の限界があるといえます。動物実験レベルではブタの心臓をサルに移植するといった異種移植も行われており、年単位の生存も確認されています。しかし、人間を対象として異種移植を行えるかと考えると、当然ながらまだまだ難しいといわざるを得ません。一方、人工心臓は、飛行機から宇宙船へ、計算機からコンピュータへと比較的短い時間で進歩していったと同じように、ある意味無限の可能性があります。
人工心臓は日進月歩で改良が進み、限界と考えられてきた5年生存の壁を超えつつあります。これまでの人工心臓装着術は、心臓移植を待つ患者さんに対して行われる治療とされてきました。しかし、人工心臓の高機能化により、アメリカでは装着後ご自宅に帰り、仕事はもちろん、運動や趣味にも大きな制限のかからない生活を送り、移植を受けることなく天寿を全うされる方も増えています。これをデスティネーションテラピーといいます。プールで泳ぐことやトランペットなどの楽器を演奏して生活をエンジョイしている患者さんも増えています。
日本でも植込型補助人工心臓認定施設は43施設にまで増えました。患者さんのなかには人工心臓の装着後ご自宅に戻り、3年や4年といった長期にわたって日常生活を送りながら移植を待つ人も増えています。
心臓移植後には、拒絶反応の有無の確認や、生涯にわたる複数の免疫抑制剤の内服など、様々なデメリットも生じます。生体組織検査(心筋バイオプシー)が必要になり、移植前よりも入院回数が増えてしまったと漏らされる患者さんもおられます。
一方、人工心臓の装着後にも機械への血栓付着を防ぐワルファリンカリウムと血小板凝集抑制剤の服用が必要になり、出血や脳血栓症などの合併症と感染症の対策が重要になります。
今後、ペースメーカーのように完全に体内に埋め込まれ、電力も10年単位で保たれ、制限の少ない生活を送ることができる人工心臓が開発されれば、これまで心臓移植を待つほか選択肢がなかった患者さんにとっては大きな希望になるでしょう。
人工心臓にも、まだまだ改良が必要な点は多数存在します。たとえば、体外に出ている電線から感染症が起こるリスクがあるため、将来的にはワイヤレスで充電できる人工心臓が生まれることが理想的です。
既にワイヤレスの人工心臓の開発を進めている研究者も多く、いずれ人工心臓が心臓移植と並ぶ時代が来る可能性は充分にあります。
しかし、抗凝固剤を必要とする人工心臓は大きさや心拍数を状況に合せて変えることができないため、外傷の機会や運動量の多い若い人や成長期にある小児にとっては不向きな治療ともいえます。ですから、心臓移植自体の重要性は変わらないものの、その適応となる患者さんを減らし、少ないドナーとのマッチをしていくためにも人工心臓の改良を進めるという姿勢を持つことが重要です。
たとえば、運動量の多い若い人や小児には心臓移植、高齢の方には人工心臓といったように、患者さんの年齢やライフスタイルに合わせて治療を選択できるようになることが望ましいと考えています。
冒頭で、心疾患に対する再生医療の研究や開発が進められていると述べました。そのひとつとして、iPS細胞を用いた心筋細胞の利用が挙げられます。
ポンプのように収縮し、全身に血液を送り届ける役割を持つ心臓の大部分は、筋肉(心筋)でできています。心筋の収縮力は非常に強いため、心臓というひとつの臓器そのものをiPS細胞で作ることは、まだまだ難しいでしょう。
しかし、心臓の細胞の一部をiPS細胞から作る研究は現在、急速進行形で進められており、将来、心臓移植の適応を減らしていける可能性が示唆されています。
既に日本では、脚の筋芽細胞から作製した再生医療製品(筋細胞シート)により、心筋細胞の一部を修復させる心不全の治療が、再生医療促進新法に則り保険診療で行われています。筋芽細胞とは、サイトカインの分泌を促し、傷ついた筋肉の素早い修復を進める細胞です。筋芽細胞を用いた心不全治療とは、弱った心臓に患者さんご本人の筋芽細胞を移植することで、拒絶反応を起こすことなく心筋の修復を促すという治療法であり、心筋への変換を目標とはしていません。この治療は2016年に保険収載され、既に心不全患者さんの治療が始まっています。
ただし、日本の再生医療製品の保険適用に関しては、世界から厳しい指摘もなされています。具体的には、増える医療費により若い世代への負担が増加するなかで、長期予後が明らかになっていない試験治療に高額の保険点数をつけることは国として適切なのか、時期尚早なのではないかといった声が聞かれます。有効性に基づく「費用対効果」の判断が必要となるでしょう。
短期の成績では、筋芽細胞を用いた治療により、人工心臓を外すまでに回復した心不全の患者さんもおられます。ところが、人工心臓を外せる心不全の患者さんは一定数(約20%)いるため、これをもって効果があると断言することはできないという考え方もあります。効果を測るためには、心不全の患者さんを対象としてRCT(ランダム化比較試験)を行なう必要がありますが、わが国では容易ではありません。もちろん、私は心臓専門医ですから、心不全の治療が進歩することを願ってやみません。再生医療による効果の判定法(有効期間や効能レベル)や費用対効果の判断法は今後専門家間で議論されていかねばならないものと考えます。
また、一定の効果があるとわかったとしても、内科的治療で同程度の効果が得られる場合、やはり保険収載には費用対効果の判断が重視されねばなりません。
現在、専門家間でも非常に大きな期待が寄せられている治療に、山中伸弥教授(京都大学)が研究を進めているiPS細胞を用いた治療があります。これは、患者さんの血液などから採取した細胞を用いてiPS細胞を作り、心筋細胞など、治療に必要な細胞に分化させるというものです。
分化させた細胞に対して既存の様々な治療薬を投与することで、効かないものは患者さんご本人には投与せず、効果が得られるとわかった薬のみを処方することができます。
たとえば、指定難病の特発性拡張型心筋症の治療では、突然死の原因にもなる不整脈の抑制が重要になります。患者さんから採取した細胞でiPS細胞を作製し、分化させた心筋細胞を体外で患者さんと同じ拡張型心筋症に特徴的な状態へと変化させることができれば、不整脈の薬剤のなかからその患者さんに対し効果を発揮する薬剤をみつけ出すことができるでしょう。
iPS細胞から分化させた心筋細胞を体内へと移植して心筋パワーの回復より、上述した治療薬選択のためのiPS分化細胞の活用は、早期に役立つものになるだろうと山中教授も力説されています。
国立研究開発法人 国立循環器病研究センター 名誉総長、公益財団法人 循環器病研究振興財団 理事長
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