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総合診療医細田瑳一先生が考える健康な成人と健全な社会とは 

総合診療医細田瑳一先生が考える健康な成人と健全な社会とは 
細田 瑳一 先生

公益財団法人日本心臓血圧研究振興会 理事長

細田 瑳一 先生

この記事の最終更新は2017年08月31日です。

※総合診療医=研究する専門領域を持ちながら患者さんに対しては全人的に対応する医師

「地域を支える医師とは、一般的倫理を行動原理とし健康な人が健全な社会で円滑に社会生活することを支援する衛生保健、予防など社会医学的視点を持つ存在である。」

このように述べる榊原記念病院最高顧問の細田瑳一先生は、ご自身が医学界だけに留まらない広いコミュニティを持ち、専門にとられることなく多角的な視点から患者さん全体を診ることに人生を捧げ、常に総合診療医として行動してきました。

細田先生の総合医としての軸を強固にした東京大学学生時代のご経験や、現在にまで活かされている42日連続の当直で得た信条について、お伺いしました。

「道」

私は医師の多い親族の中で育ち、周囲から当然のごとく医師になることを期待されていました。しかし、幼少期から謡曲、漢文や英語に音楽、馬術に和船をあやつり漁にと、様々な文化や社会と親しみながら育ったためか、私の心の内には自身の社会は医学界のみではないという思いがありました。そのため、高校生の時から医学ではなく、当時目に見えて著しく進歩していた生化学の道に進みたいという思いが芽生え、京都大学理学部に進学したのです。

京都大学入学から2年後の昭和27年に東京大学医学部へと入学したのは、理学部進学に関し親戚一同から猛烈な反対を受け、学費を出さないとまでいわれてしまったためです。これが、私が医師としての道を進み始めるきっかけとなりました。

しかし、自身に影響を与えたのは、医学界のみではありません。

医師としての長い人生を振り返っても、私が交流してきた世界は狭いものではなく、他の様々なコミュニティがあったからこそ広い視野が得られたのだと感じています。

東京大学入学後、私は肺結核を患い、1年生の後半からの半年は自宅で勉強しつつ療養しながら試験を受けるという生活を送りました。

その後は症状も落ち着き、健康な学生と同じように通学し、勉強、社会医学研究会、さらには陸上競技部や硬式テニス部、音楽、合気道部にと学内外での活動に打ち込みました。しかし、この肺結核の既往は、その後私が循環器内科を選ぶまでの道程に大きく関わることになるのです。

当時はインターン制度があったため、医学生は大学を卒業したあと1年間の多科ローテートインターンを経て医局に所属し、医師として働き始めました。

私は社会医学研究会で農村を巡った経験から、将来的に無医村で働くことも視野に入れ、当時最も診断技術が進んでいた脳外科もしくは神経内科に進みたいと考えていました。

医師のいない地域で、患者さんの全てを自分ひとりで診るためには、より高い技術を習得する必要があると考えたからです。

脳(頭部)の手術

インターン時代、私の第一志望は清水健太郎先生が教授を務める第一外科でした。現在のように臓器ごとの縦割り制度ではない第一外科で、私が志していた脳の外科手術を主として行っていたのは、当時筆頭助手を努めておられた佐野圭司先生です。毎晩泊まり込んでいた第一外科では、佐野先生の17時間に及ぶトルキルドセン手術や亡くなられた方の解剖にも立ち会いました。

ところが、学生時代に肺結核を患っていたため、外科は体力的に難しいのではないかと言われてしまい、脳外科への道は絶たれてしまったのです。

このような経緯で、私は冲中重雄教授のおられる神経内科(第三内科)へ進むこととなりました。日本の医学の発展に大きく貢献された冲中先生は、以下に記す①~③など医療の基本を教えてくださいました。さらに、常に科学者の姿勢で基礎医学や実験研究を進められ、臨床研究に専門性を導入され、臨床にも優れた立派な指導者であり、医学教育者として私共の進むべき方向を示して下さったと、今でも尊敬し続けています。

  • どんなに多忙でも患者さんのことで相談に行くと必ず真剣に診察など応じてくださいました。
  • 書かれた医学は過去の経験に基づくものであり、明日の医学は患者さんから習うもの
  • 薬の副作用など医療の被害を正しく観察し、医原病を避けよ。

第三内科志望の意思を伝えた当初、医局長からはやはり肺結核の既往を理由に難色を示されてしまいました。自宅療養は半年のみ、その後は通学も部活動も全て健康な学生同様に活発に行っていたにも関わらず、です。

そこで私は「年末正月の当直など、どんな仕事も成し遂げること」「絶対にグループのメンバーに迷惑をかけないこと」を心がけ、言葉通り冲中内科の連続当直最長記録・42日間の連続当直も行いました。

当時の冲中内科は、一般病棟と結核病棟あわせて約120名の患者さんを抱えており、これに加えて週三日は外来救急患者さんの診療も担当していました。こうした環境下で沢山の患者さんの病状だけでなく性格などを細やかに教えてくれたのは、看護師の方々です。看護師がいなければ、病院の仕事は円滑には実施できません。

その仕事ぶりに感銘を受けた私は、病院を動かす立場になってからも、看護師を大切にチーム医療をすることを自身の信条としています。

当直

また、2003年12月に榊原記念病院が府中に移転し開院した折には、年末年始20日間の管理当直を行い、院内のスタッフに当直とはいかなるものかを教育しました。12月という時期に開院を急いだ理由は、正月休みに開いている病院がなければ地域の方々が困ると考えていたからです。

冲中内科では2年間にわたり感染症や悪性腫瘍(がん)、神経内科の治療が難しい患者さんを診ていましたが、これは私にとって非常に辛い経験でもありました。

がんなど治療不能の患者さんや、筋萎縮症で呼吸も困難で古い鉄の肺と呼ばれる体外式の呼吸補助装置に入っておられる患者さんなど、明らかに具合のよくない方々に対し「今日の体調はいかがですか」と問うことは、医師として非常に苦しいものです。

このような経緯から、冲中先生に悪性腫瘍と神経疾患のない研究室へいきたいと希望したところ、「それならば循環器内科しかないじゃないか」と言われたことが、私が循環器内科を選ぶことになったきっかけです。

循環器内科へ進んだ後も、自身の専門だけでなく消化器科、専門の先輩から消化管の検査法(放射線透視)を教わり、多くのことを学びました。当時は現在のように専門分化が進んでいない時代でしたから、レントゲン透視やスケッチ、血算、血糖測定、やトロンボプラスチンの製作やトロンボテストの導入なども自分で行ったものです。

こういった経験が、工夫を凝らして患者さん全体を診る力を養ったと感じています。

私が教授となってから最も長く勤めた大学は、自治医科大学です。三内科が専門分化した後は、循環器内科の教授となったものの、腎臓や免疫も分担し医学概論、ケースワーキング、疫学、地域医療学講座も開講しました。

また、教授会の中に”social minded professors”というチームを作ったのも、この時代のことです。衛生学、ウイルス学、寄生虫学、公衆衛生や精神医学、社会医学に関する実績のある方ならば、専門を問うことなくメンバーになってもらい、多岐的な視野から公衆衛生と予防医学、地域医療の向上に貢献する活動ができたと考えています。学生の病棟でのベッドサイドティーチングにケースワーキングの実習を加え、夏休中の各県で合宿での学生実習では地域の状態に応じた「地域医療のあり方ワークショップ」を毎年何回か行い、学内では2時間ずつ3回ほどの会合で「問題解決ワークショップ」を関心のある人を集めて行い、改革の抜針にしていました。

細田先生

専門医という言葉が頻繁に使われる時代になりましたが、自分の専門以外は診ないと断言してしまう方は、患者さんを全人的にみていないのです。

私が考える医師とは、他の医療職と共に疾病や健康の問題を訴える人々や、住民一般に保健疾病予防など将来を考え、健康回復・維持・増進の支援をする専門職です。

健康とは、身体的、精神心理的に健やかで円滑に社会生活を営めることを指します。出生から成人までは、保護者の庇護の下で教育され、運動と免疫で抵抗力を身につけながら、適切に必要に応じて医療を受けます。

私は、自立した健康な人のことを成人と呼んでおり、医師の仕事の中には、成人が社会人として健全な社会を作ったり、健全な社会からその人が認められることを支援する役割があると考えています。これを実現するためには、メンタルケアも欠かせません。

これからの地域社会を担う総合医には、その社会で生活する成人が、精神面でも肉体面でも困難なく、円滑に社会生活を送ることができるよう導くことを目的に、適切な栄養と生活習慣を身につける方法を個人個人の生活に応じて考え医療保健の業務に勤めるよう求められます。