人生、どうなったって楽しいのです。なるようになるのです

「人生、どうなったって楽しいのです。なるようになるのです」

親友と二人三脚で自分の道を築き上げた西村正治先生のストーリー

北海道大学大学院医学研究院・医学院 呼吸器内科学講座 教授 / 北海道大学病院内科 I 科長

西村 正治 先生

主治医は患者の疾患について世界一詳しくなければならない

私の尊敬する恩師のひとり・村尾誠教授は決して医局員に強制しない人でした。もちろん、ご自身のなかには確固たる意志や意見をお持ちです。しかし、それを他者に押し付けるようなことは決してしません。そんな先生から唯一厳しく指導されたことがあります。

「誰かの主治医になるということは、その人のかかっている疾患について一番詳しくなければならない。それほど患者への責任がある。それがあるべき主治医の姿だ」

この教えは、教授になった今でも胸に刻んでいます。徹底的に患者さんの病気について勉強し、徹底的に学ぶことは私にとっては当たり前のことになっています。

かつて、北海道大学病院第一内科は70以上もの関連病院を抱え、各施設に次々と院長を輩出してきたいわゆる「院長人材輩出内科」でした。そうした伝統は今後も継承されていくべきだ、という暗黙の了解があったのです。ところが、新しく教授になられた東京大学ご出身の村尾先生はこの体制にメスを入れました。

「大学病院とは研究を行い、それを広く発信することで、次代を担う指導者を作る場所。それこそが本当の大学病院のあり方のはずだ」

村尾先生はその信念に則り、関連病院を次々と廃止し10施設以下にまで削減させたのです(後になって聞いたのですが、関連病院を次々と廃止した当時、村尾先生は自分が恨まれていたことを痛感していらっしゃっており、私はいつか襲われるのではないかと街を歩くことすら怖かったそうです)。ただし、関連病院との関連が途切れたのは1970年当時に医学部紛争やら医局解体紛争があったことも一因です。

村尾先生はそれほどの強い決意でこの医局を立て直そうとしたのです。

北海道大学病院第一内科が村尾先生以前の「院長人材輩出内科」のままだったら、私が教授になることもなかったでしょう。教授の生き方は、教え子の人生にまで影響を及ぼす。このことを私は痛感しましたし、村尾先生に出会えたからこそ、今の私があると思っています。

大学と市民病院、二つの施設で対照的な価値観を学ぶ

研修時代、大切なことを学びました。それは「良い医療の価値観は一つに定まらない」ということです。

大学卒業後、臨床を学ぶために砂川市立病院に赴任しましたが、そこで私は大学病院とは真逆の価値観の存在に直面したのです。

大学病院の診療方針と市中病院の診療方針には、あまりにも大きなギャップがありました。今でこそ大学病院でも平均在院日数などベッドの回転率を意識していますが、当時の大学病院はそのようなことは一切考えもしない時代。2か月以上入院している患者さんが山のようにいらっしゃいましたし、そもそも大学病院では一週間にひとつ大きな検査をして結果を待ち、来週にまた一つ検査をして、という風に、「ひとつの症例をいかに丁寧にみるか」に重きが置かれていたのです。

一方、私が赴任した砂川市立病院のような地域の市民病院では「とにかくたくさんの患者さんを診療する」ことが最優先されます。砂川市立病院勤務時代、毎週金土日は50人規模の病棟を私ひとりで受け持ち、ある土曜日には、ひとりで130名の外来の患者さんを診察したこともあります。

これほど多くの患者さんを診察すると、ひとりにかけられる時間は少なくなってしまいますし、なかなか丁寧な治療ができません。当然、患者さんの満足度は下がってしまいます。それでも病院で医師に診てもらうこと自体に意味があるのでしょう。砂川市立病院には日々、たくさんの患者さんがいらっしゃいました。

「徹底的に丁寧な診療をする」大学と「可能な限り多くの患者さんを診る」市立病院。両者の価値観は相反するものですが、両方ともその当時の社会に求められている価値観なのだと実感しました。

「1日100名近い患者さんを診療する世界」と「何週間もかけてたった1人~2人の患者さんを徹底的に調べる世界」。駆け出しの頃から、異なる価値観を受け入れられるようになったことは、医療の道を進むに当たっては非常に重要だった気がしています。

海外では同世代の若者が英語でディスカッションしていることに衝撃

大学に戻ってから、私は大学院には入らずに研究グループに所属しました。私は医学部学生であった頃、医師になったら研究をすべきものだということすら知りませんでした。きっかけは、村尾教授にそのように指図を受けたからです。研究テーマも教授に与えられたものでした。後に4代目教授となったもう一人の恩師 川上義和先生の下で、私は睡眠時無呼吸に代表される病態、睡眠時の呼吸調節に関する研究をはじめました。はじめて海外の学会に連れて行ってもらったときの衝撃は今でも忘れることはありません。同世代の若者が研究成果を発表し、かの有名な先生と英語でdiscussionしているのです。このときはじめて、研究を通して社会に貢献する医師の姿もあることに気づいたのです。いつか彼らとdiscussionできるようになりたいという想いは強烈でした。

生涯の人生の相棒ともいえる棟方充先生(福島県立医科大学呼吸器内科教授を2017年に退職)と私は北海道大学医学部同期卒、卒後2年目研修は函館国立病院で同じ病棟を担当。その後、同じタイミングで海外に留学し、そして同じタイミングで帰国して同じ医局に戻ることになりました。

「2人同時に大学に戻ったとしても果たして私たちの居場所はあるのだろうか」

ふと不安が頭をよぎりました。一般的に、大学の人員配置は枠を増やそうと思ってもそう簡単にはいかないからです。ところが教授の川上先生は、私たちが帰国してから、別の先生を外部に異動させてまで、我々を同時に助手(現在でいう助教)として迎え入れてくれました。

それからは、二人三脚で歩みを進めてきた私と棟方先生。ライバルであり、親友でもある。そんな存在になっていました。川上先生に講師にしていただいた時期も2人はほとんど同じです。しかし、周囲はこの関係が長くは続かないとみていたのでしょう。あるとき同門の先輩は「君たちは今現在、同期として仲良くしている。しかしやがてこの関係は維持できなくなるよ」と忠告します。やがて私たちはライバルとして対立していくと予想されたのでしょう。

たとえ君が助教授になっても、それでいい

その後、川上先生は私を助教授(現在でいう准教授)に任命します。この時点で周りは、私が北海道大学内科Ⅰ(旧第一内科)の次期教授になることは決まったも同然とみなしたようでした。そして、私が実際に教授に就くことになるのですが、その数年前、川上先生は当時講師であった棟方先生を福島県立医科大学の教授に推薦し、彼はそのまま1999年に同大学呼吸器内科初代教授に就任しました(18年間にわたり教授を務めあげ、2017年3月に退官されました)。

結果だけをみれば、同じ歩みを進めてきた二人のうち片方が出身教室の教授になり、片方が外部の大学に移ったとなれば、その関係が崩壊しているように思われるかもしれません。しかし、大方の予想は大きく外れ、彼と私は今も無二の親友関係にあります。

それは私が助教授に任命される直前のことです。「もし棟方先生が助教授に任命されるならばそれでいい」と私は心から思っていました。彼にはその資質があるし、それに相応しかったからです。そして、ありがたいことに彼も同じ気持ちでいてくれたのです。

私たちふたりには「あいつを押しのけてでも絶対に教授になりたい」という気持ちはありませんでしたし、仮に地方の市中病院に行くことになったとしてもそれはそれで楽しく働けると考えていました。だからこそ、不満や恨みといった感情は一切ありませんでした。彼は私の助教授就任を心から祝福してくれました。私たちは同じ呼吸器内科医としてライバルであったことは事実です。しかし、それ以上に親友だったのです。互いの能力を評価しあい、尊重しあう特別な関係。互いに特別な存在があったからこそ、2人とも教授になれたのでしょう。

トップに立たない人生だって、楽しい

それから時が経った2013年4月、現在の病院長が院長に就任された瞬間。対立候補で有力だと思われていた私は、病院長戦に「落選」しました。

「そうか、それならこれからも教授としてやるべきことをやろう」

悔しさは微塵もありません。それは助教授に任命された頃から変わりません。決まったことを素直に受け入れる。与えられた職務を全力で全うする。病棟勤務・教育・研究、そのすべてを愛し、どのような環境下に置かれてもよいと考える私からすれば、トップに立てばやるべきことが出てくるし、一方、別にトップに立たずともやれること・楽しいことは山のようにあるからです。

人生、どんなふうになってもハッピーでいられる

「出世しなかったから損をした」

「地方の病院勤務に指命されたら何も楽しくない」

こうした狭い価値観で生きていると、人生の楽しみが激減してしまいます。人生、どうなったって楽しいのです。いくら頑張っても自分の思う通りの人生を歩むことができるとは限らないし、どんな道であっても自分ができることはたくさんあるのです。その時に応じて頭を柔らかくして考えられる人間は、自分の人生がどのようなことになっても幸せでいられる。私の人生を振り返ってみると、そんな想いが今の自分を創ってきたように思います。

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