ウォルター・B・キャノンという人をご存じでしょうか。彼のことを知らない人は多いかもしれませんが、彼の発見したものを知らない人はいないはずです。
キャノンは1800年代から1900年代にかけて活躍し、「ストレス反応」という事象を初めて観察した生理学者です。「恒常性」という生物の基本原理を提唱したのもキャノンです。私は高校生のころに彼の存在を知り、彼が研究テーマとしていたストレスに興味を持つようになりました。
人はストレスを感じると、胃が痛くなったりパニックで呼吸が乱れたり、食事が摂れなくなったりします。そして身体的には大きな問題がないにもかかわらず、原因不明の痛みやだるさに苦しむ人もいます。
「なぜ人はストレスが生じると、震えたり緊張したりするだけでなく、体の調子も悪くなるのだろう?」
その理由を知りたい―。そんな好奇心から、私は東北大学医学部へ入学したのです。
東北大学医学部を卒業し、私は迷うことなく、ストレスの研究を行っている東北大学心療内科へ入局しました。心療内科は、私が入局した当時はまだ新しい医局でした。
そこで私はストレスの病態生理を研究テーマにしました。
東北大心療内科は消化器病と糖尿病を専門とする第三内科から分離して出来た診療科です。このため、受診する患者さんの中には、過敏性腸症候群の方が多く含まれていました。
過敏性腸症候群は、ありふれた消化器病であり、かつ、心理社会的ストレスを体験した時に消化器症状が発症・悪化する代表的な心身症です。ちょうど、私の先輩が過敏性腸症候群の消化管内圧を計測する機器を購入してから大学を離れていたことから、指導者の鈴木仁一先生にその機器を使った研究を勧められました。私はこの話を聞いてすぐにこう考えました。
「ストレス負荷時の過敏性腸症候群の消化管内圧を計測すれば、この代表的ストレス関連疾患の病態がわかるはずだ」と。しかも、これでキャノンの研究を臨床的に深められると思ったのです。
キャノンはハーバード大学医学部の学生の時に、動物の情動が変化すると胃腸の運動が変化することを、当時発見されたばかりのX線を使って明らかにしていました。しかし、造影剤とX線を使って消化管運動を観察するのは解りやすいのですが、数値化しにくい点、X線による被ばくが決して少なくない点が難点でした。一方、人間の大腸内圧を測定すれば、大腸運動を数値化できます。そこで、大腸内視鏡を使って消化管内圧カテーテルを上行結腸に入れる方法を考えて実行しました。
当時、東北大心療内科では、鏡映描写法というストレス負荷法を好んで用いていました。そこで、大腸内圧と鏡映描写法ストレスを組み合わせ、過敏性腸症候群と対照群のストレス応答を比較しました。結果は、過敏性腸症候群の大腸運動がストレス負荷時に対照群よりも増強されるというものでした。この成果は英語の論文として公刊され、今もときどき引用されています。
ストレスと体の研究はとても奥深く、まだ解明されていないことが多くありました。人間の性格がストレス応答をどのように左右しているのかという問題です。
より深く研究をすべく、私はアメリカのデューク大学へ留学しました。恩師のレッドフォード・B・ウィリアムズ教授がいるからです。ウィリアムズ教授は心療内科領域の世界的権威で、行動医学教室を主宰していました。彼のもとで、私はストレスと身体疾患の関係について、熱心に研究をしました。ウィリアムズ教授は、敵意性の高さが心血管反応を左右する成果をScience誌に公刊していました。
私は、それが、神経伝達物質の負荷によっても成り立つか否かを検証しました。これは、イソプレナリン塩酸塩という合成カテコールアミンを点滴し、心電図、血圧、前腕血流量を計測するものです。ところが、それだけでなく、迷走神経の影響を除外するために、アトロピン硫酸塩水和物という遮断薬を前投与して行いました。イソプレナリン塩酸塩の投与だけでも心拍が上昇するのに、アトロピン硫酸塩水和物で迷走神経のブレーキを働かないようにして検査するので、屈強な白人の男性でも、しばしば具合が悪くなります。心電図の変化を見ながら投与していくのですが、STが降下して行くと心筋梗塞が発症するのではないかと背中に冷や汗をかきながら検査していました。
この緊張する検査でもウィリアムズ教授が見守ってくれていました、私が血管確保して機器を装着し、生理食塩水を投与し始めると、ウィリアムズ教授が現れて検査の様子を見ていてくれるので、心強く感じたものです。
人間相手の研究は対象者の予定があるので毎日はできません。それで、空いた日には動物実験をすることにしました。ウィリアムズ教授の仲間のサーウィット教授は糖尿病におけるストレスの研究者です。そこで、糖尿病動物の迷走神経応答を測定することにしました。ムスカリン受容体刺激薬のベタネコールをob/obマウスに投与したところ、理論通りインスリン分泌が起きました。ところが、予想に反し、血糖が上昇したのです。驚いてこの結果を糖尿病専門紙Diabetesに投稿したところ、すんなり受理されました。
一方、本業の心血管反応の方は全く思うような結果になりません。結果を前に、研究グループで議論していたある日、ウィリアムズ教授が、「研究の基本的仮説に立ち戻って結果を見直そう」といい出しました。そこで、研究の仮説と出てきたデータを冷静に並べてみると、元々の仮説を支持している結果になっているではありませんか。研究を実行し、いろいろ調べて情報量が増えている間に、もともと考えていた仮説から、これをやったらこうなるはず、こうなったらすごい、という副次的仮説の方に視点が移動してしまっていたのです。研究において、予断を交えずにデータを見ること、研究討議の重要性が判った瞬間でした。この結果は循環器専門紙Circulationに掲載されています。
米国のよいところは、よいものを直線的によいと評価する点、必要であれば短期間に資源を投入して仕事を仕上げる合理性でしょう。一方、米国滞在中に、人間の心身の見方や相手の心を思いやるやり方などは日本が優れていると思うことが多くありました。きめ細かい芸当はやはり日本人の方が得意で、よい仕事をするのです。こういったことは留学して初めて気付いたことです。
研究だけでなく、臨床においても常に患者さんと二人三脚で同じ方向に向かって歩いていく気持ちで、治療に臨んでおります。
私が担当した数々の患者さんとのエピソードに忘れられないものがあります。そのなかでも特に印象に残っている患者さんがいます。その方は摂食障害を患い、ほんの短期間でBMIが11にまで落ちていました。標準のBMIが22程度であることを考えると、いかに痩せていたかがわかることでしょう。
問題は、急激に著しい体重減少を起こしているということでした。摂食障害はただ体重が減るだけでなく、それに伴い全身にさまざまな疾患を引き起こします。その患者さんは、栄養失調による血小板減少や無顆粒球症といった血液、免疫低下の症状、骨髄の低形成、自然気胸など多くの症状が発現していました。このままでは命にかかわる状態です。
しかし摂食障害の難しい点は、本人に病気の自覚がなく、体重が増えることに激しい抵抗を覚える点です。むろん、その患者さんも当初は治療に激しく抵抗し、点滴を引き抜くことさえありました。
それでも諦めずに重い身体合併症の治療に最善を尽くし、患者さんの心によい暗示を働きかけつつ、懸命に治療を続けました。あれほど痩せ細った患者さんでしたが、最終的には社会復帰をするまでに回復されたのです。のちにその患者さんは、治療前の自分をこう振り返りました。
「自分が何をしていたのか、よくわからないんです。ただ、ぼうっとしていました。どこか生きている心地がしなかったんです。」
でも今は治療をしてよかったと、そういってくれました。患者さん自身はあれだけ治療に抵抗していたにもかかわらず、治療を受けると精神も安定しました。この患者さんは、心と体が密接につながっていることを改めて私に教えてくれました。それと同時に、心と体に同時に働きかけることでこんなにもよくなる。そう教えてくれたのです。私はアメリカでの留学、そして心療内科の患者さんを通じて、自分の道が一層はっきりしたと思います。
私は高校生のころから現在に至るまでずっと、人の心と体について興味を持ってきました。医師になってからは、診療と研究に明け暮れてきました。大学時代に所属していた剣道部の師範からは「一を以て之を貫く」という言葉を教わりました。これは「論語」に登場する一文で、「何があっても一貫した態度で自分の道を進む」という意味です。私はその言葉に憧れて人生を歩んでいると思います。
そんな私にとって、心療内科医という仕事が天職に感じられます。人は心の変化で体の状態が劇的に変化する本当におもしろい生き物です。心療内科医は、心に働きかけることで患者さんの心の状態が変化し、そして体の不調まで回復することを体験します。心療内科医の仕事とは、つまり、患者さんの心が快方に向かうスイッチを見つけ出し、そのスイッチを押すことだといえます。うまくスイッチを見つけて押せたときの喜びは何物にも代えがたいものです。
ですから、「人間」と真摯に向き合う仕事である心療内科医という仕事の魅力を若手の皆さんにも伝えたいと思います。
他の診療科で「原因がわからない」「薬では治らない」といわれた患者さんが心療内科にやってくることもあります。しかし、心と体の関係という別の角度から患者さんと向き合ってみると、今までみえてこなかったものがみえてきます。そして、そのスイッチに働きかければ、驚くほど劇的に症状が回復する例を体験します。どの診療科でも難しかった症状が改善したときの患者さんの笑顔、そして紹介してくれたドクターの感心した顔をみると、とてもやりがいを感じます。
心療内科は、マイナーな診療科かもしれません。精神科と混同されることもあります。精神科医が心の状態を重点的に診療するスペシャリストであるのに対し、私たち心療内科医は、心と体の両方をみて双方向からアプローチし、心身相関を使って治療を実践しています。このように、両者は似てはいますが、それぞれの得意な領域に沿って、ときには連携しながら患者さんが健やかに過ごせるよう、努力するのが理想だと思います。
心と体、両方のケアを必要とする人は世の中に多くいます。現代の医療では、体においては臓器別にその分野のスペシャリストがいますが、まだまだ心と体の双方向の病態をみることのできる医師は少ない状況です。心と体のそれぞれに悩みを抱えている方を一人でも多く回復軌道に乗せる、そんな医師が私の理想です。そして「一を以て之を貫く」の言葉のように、何があっても動じず、医業を実施したいです。そのためには、やはり科学が必要ですから、臨床と研究にバランスを取って打ち込む所存です。
この記事を見て受診される場合、
是非メディカルノートを見たとお伝えください!
東北大学病院
東北大学大学院医学系研究科 てんかん学分野教授
中里 信和 先生
東北大学病院 耳鼻咽喉・頭頸部外科 科長、東北大学 耳鼻咽喉・頭頸部外科学教室 教授
香取 幸夫 先生
東北大学大学院医学系研究科 てんかん分野 准教授
神 一敬 先生
東北大学病院 リハビリテーション科 科長
海老原 覚 先生
東北大学 大学院医学系研究科 消化器外科学分野教授、東北大学病院 肝・胆・膵外科長
海野 倫明 先生
東北大学大学院医学系研究科 神経・感覚器病態学講座 皮膚科学分野 教授
浅野 善英 先生
東北大学 大学院医学系研究科 発生・発達医学講座小児外科学分野 准教授 、東北大学病院 小児外科 副科長
和田 基 先生
東北大学大学院 医学系研究科・医学部 皮膚科 准教授、東北大学病院 皮膚科 副科長
山﨑 研志 先生
東北大学 副学長、東北大学病院 病院長、東北大学東北メディカル・メガバンク機構 機構長特別補佐
八重樫 伸生 先生
東北大学 大学院医学系研究科 神経内科学分野 教授、東北大学病院臨床研究推進センター センター長
青木 正志 先生
東北大学病院 消化器内科 准教授/消化器内視鏡センター センター長
小池 智幸 先生
近畿大学東洋医学研究所 所長・教授、東北大学 医学部 産婦人科 客員教授
武田 卓 先生
東北大学 大学院医学系研究科緩和医療学分野 教授
井上 彰 先生
東北大学大学院医学系研究科 精神神経学分野 教授、東北大学病院 精神科 科長
富田 博秋 先生
東北大学病院 総合地域医療教育支援部 部長、東北大学大学院医学系研究科総合医療学分野 教授、東北大学病院 病院長特別補佐、東北大学大学院医学系研究科 研究科長特別補佐
石井 正 先生
東北大学 大学院医学系研究科 精神神経学分野 准教授、みやぎ心のケアセンター 副センター長
松本 和紀 先生
東北大学消化器内科 非常勤講師
金澤 義丈 先生
東北大学大学院医学系研究科 周産期医学分野 講師、東北大学病院 婦人科 外来医長
渡邉 善 先生
東北大学病院 教授
久志本 成樹 先生
多根総合病院 腫瘍内科副部長/がん診療センター副センター長
岡田 佳也 先生
「受診について相談する」とは?
まずはメディカルノートよりお客様にご連絡します。
現時点での診断・治療状況についてヒアリングし、ご希望の医師/病院の受診が可能かご回答いたします。