ある人間の(犯罪行為などの)表出に対して、それが「病気」なのか、「性格」なのかということに明確な線引きをすることは非常に難しいテーマです。このことはつまり、「心の病」に明確な線引きをするということには多くの困難があるということと同様です。
では、「心の病」とは何なのでしょうか。この問いに、司法精神医学とうつ病をめぐる諸問題を神経心理学の観点を交えつつ、慶應義塾大学医学部精神神経科准教授の村松太郎先生とともに考えていきます。
司法精神医学(「精神医学と社会―司法精神医学とは?」参照)の考え方の基本には、次の問いがあります。
「彼にその行為をさせたのは、病気か、それとも元々の性格か」
これが、刑事責任能力(「刑事責任能力とはなにか」参照)を問う場合の基本であり、裁判において重要な前提とされる二分法です。この問いに対する答えが「病気」であれば、非難は弱くなります。そして「性格」であれば、非難は強くなります。
しかし、人間のあらゆる(犯罪行為などの)表出は脳の機能の現れなのです。したがって、「病気」と「性格」を明確に区別する根拠は、科学的には存在しません。
ここから、ひとつの例をあげて、「病気」と「性格」の二分法をめぐる矛盾を説明します。
「他人の痛みがわかる」ことの脳内メカニズムはかなり解明されています。「他人が痛みを感じている場面を見ている」ときには「自分が痛みを感じたときに活動する脳部位が活動する」のです。すなわち、その脳部位が活動しなければ他人の痛みはわからない、ということになります。
すると、「他人の痛みを顧みない性格」ということを理由に、犯罪者に対して非難を強めることは明確に矛盾しています。なぜなら、他人の痛みがわからないことは、脳の活動の話に帰着するからです。ただし、「脳の活動」については、さらに以下のことを認識しておかなければなりません。
すなわち、人間の精神についてのある現象(たとえば、人の痛みを顧みない性格)について、それを脳の活動によって説明できたとしても、それはその現象と脳の活動が対応していることを示しているにすぎず、それ以上でも以下でもないからです。
換言すれば、対応する脳の活動が証明されても、それによってその人の性格なり行為なりを非難できるかどうかということとは全く無関係なのです(これはしばしば裁判員にも裁判官にも大きく誤解されるところです)。
ここで問題なのは、いわば、「脳の病気というものを、脳内に対応部位(いわゆる責任病巣)が見出されるものと定義するのであれば、病気と性格には明確な一線は引けない」ということです。つまりは、脳の病気の定義が究極の問題ということになります。
すなわち、脳機能に障害があるとするなら、これは脳の病気による犯行なのか、性格による犯行なのかを明確に判別することはできないのです。
それでは、「うつ病」はどうなのでしょうか。
「うつ病は病気です。怠けや心の弱さではありません」と精神科医は教えます。
しかし、うつ病が脳機能の障害であるというのであれば、怠惰な性格も脳機能の障害です。心の弱さも脳機能の障害です。すると、これらの性格と区別してうつ病を病気であるとする根拠は何なのでしょうか。
日常の臨床や診察室の中においては、こういう問いが発生することはまずありません。臨床とは、どこまでも患者本人のためのものだからです。では、どのようなときにこの問いが発生するのでしょうか。それは、患者本人の社会との接点が問題となったときなのです。
患者と社会の利害がコンフリクト(衝突)するとき、この矛盾が顕現します。それは、たとえばうつ病による休職であり、うつ病の労災訴訟であり、さらに言えばうつ病による犯罪が起きたときです。
ここで、話を司法精神医学に戻します。
ある「逸脱」について、それに対して
それを決めるものは何なのでしょうか。この問いは「うつ病は病気なのか?」という問いと同様に「心の病とはなにか」という問いに類似していることがお分かり頂けたと思います。
次の記事では、さらに「心の病と『社会との接点』」について詳しくお話しします。