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インタビュー

生物学的精神医学とは

生物学的精神医学とは
加藤 忠史 先生

脳神経科学研究センター精神疾患動態研究チーム・チームリーダー

加藤 忠史 先生

「生物学的精神医学」という言葉をご存知でしょうか。普段耳にすることがない言葉ですが、精神疾患の解明に非常に重要な役割を担っています。生物学的精神医学とはなにか、どのような歴史を歩んできたのかを、理化学研究所 脳神経科学研究センター精神疾患動態研究チーム・チームリーダーの加藤忠史先生にお話を伺いました。

生物学的精神医学は、英語では Biological Psychiatry (バイオロジカル サイカイアトリー)といいます。基本的には、精神疾患を「脳の病気」と捉えることにより、脳に何が起きているのかを生物学的な視点から解明していこうという考え方です。生物学的精神医学という言葉はあまり一般の方々に馴染みがないため、生物学的精神医学会でもその名称について議論されたことがありましたが、歴史的経緯や英語との対応などの問題もあって、結局今の名前で落ち着いているのが現状です。

1900年前後(明治時代)、日本は精神医学をドイツから学び、日本の医学に取り入れてきました。その当時取り入れられた精神医学では、精神疾患は脳の病気であると考え、亡くなった患者さんの脳を顕微鏡で見るという研究が盛んに行われていました。この時代に、顕微鏡や肉眼で病変が観察できるような病気、例えばアルツハイマー病パーキンソン病などが次々と発見されました。1902年に、精神科医と神経を扱う内科医が一緒に設立した日本神経學会が、1935年に日本精神神経学会となりました。しかし、次第に、病変が明らかで知覚・運動などが障害される神経疾患を主に扱う神経内科が、病変が明らかでない高次精神機能の障害である精神疾患を扱う精神医学から分かれていき、1960年に神経学の学会が独立しました。

精神疾患では、病変が顕微鏡などで観察できなかったことから、次は生化学的(生命現象を化学的に研究する生物学または化学の一分野)な研究が行われましたが、それでもどのような病気であるのかは解明できませんでした。その結果、精神疾患をより心理学的なアプローチ(精神病理学)により解明しようという動きが盛んになりました。この精神病理学により、例えば統合失調症では、その基本症状が明らかにされ、これに基づいた疾患概念が定義されました。

このように精神疾患が精神病理学的な理解に基づいて分類され、特徴付けられた結果、各々の精神疾患に遺伝要因が関係することが分かったり、MRIやCTなどの脳画像検査技術の進歩に伴って、特徴的な脳の変化が見いだされるようになってきました。こうして、精神疾患において脳を研究することの重要性が再認識され、生物学的精神医学が再度盛んになってきているのです。

前項で述べたように、精神医学が日本に入ってきた1900年前後は、精神疾患に対しても患者さんの脳を観察する研究が主でした。しかし、脳に病変が観察できないことから、精神疾患を生化学的、さらには精神病理学的(心理的な研究)研究が主となりました。その間に、患者さんの脳を対象に研究する「生物学的精神医学」が停滞してしまった時期もありました。ここではその背景について言及します。

1970年前後の大学紛争時代では、インターン制度や大学の医局講座制度が患者や研修医の人権を奪っているという考えがもとになって、一大反体制運動に発展しました。この運動の背景には反精神医学もあったのです。精神疾患はそもそも存在せず、社会が作り出した弱者を抑圧するためのシステムだという考えが一世を風靡し、精神科関係者の一部までが一時はこれに近い考えを持っていました。精神医学の大学院への入学もボイコットされていました。東京大学では、精神医学研究に反対する人と研究が必要だという人の対立から、外来患者が病棟に入院できないという異常な状態が長く続き、これが解消されたのは1990年代の話です。

当時は、生物学的精神医学に対する批判的な風潮がありました。そもそも精神疾患など存在しないと主張する人に対しては、生物学的精神医学の立場から「精神疾患は脳の病気だからしっかり脳を研究しなければいけない」などと言っても納得してはもらえません。「そもそも精神疾患は存在しないのに脳を調べるとは何事だ、社会が悪いのだ」と言われてしまう非常に大変な時代でした。

ただし、当時はまだインフォームドコンセントも倫理委員会もない時代でしたので、現代から見れば患者さんの人権への配慮に欠けた研究が行われていたことも事実です。紛争の間は、一部の病院で行われていた人権への配慮に欠けた研究や、過去に行われたそうした研究が批判の対象となりました。こうした運動が、適切な倫理的配慮のもとに研究を進めるシステムの確立に繋がった面もあると思います。

現在では、倫理指針が定められ、精神疾患の患者さんに対する臨床研究を適正に行う体制がしっかりでき、過去の反精神医学的な運動を乗り越えることができました。そしてその間に脳科学も進歩しました。その進歩とともに精神疾患が少しずつ解明される時期にきています。

大学紛争も終わり、反精神医学が少しずつ解けたあとで多くの人が口にし、納得していたのは「バイオサイコソーシャル・モデル(生物心理社会モデル)」です。これは、精神疾患は生物学的・心理的・社会的なさまざまな相互作用で起こるという考えで、研究・治療においてもこうしたさまざまな観点を取り入れようというものです。この考えの中で、生物学的精神医学もアプローチの一つとして位置づけられました。

最近ではさらに進んだ考え方として「多元主義」があります。ナシア・ガミーという精神医学者・哲学者が、精神疾患を包括的な「バイオサイコソーシャル・モデル」というアプローチで捉えることがむしろ進歩を停滞させているのではないかと問題提起しました。つまり、何でもありではなく、精神疾患ごとにどのアプローチがもっとも適切なのか(生物、心理、社会のどれか)を的確に考えることが重要な場合もあると言われたのです。この考えは京都大学精神医学教授の村井俊哉先生がナシア・ガミーの著書を翻訳したことで日本にも知られるようになりました。

(参考:村井俊哉先生の記事「これからの精神医学のあり方(2)―精神医学に必要とされる観点とは」)。