今は亡き私の叔父は消化器科の医師で、東京慈恵会医科大学の教授を務めていました。そのため幼い頃から医師という仕事はとても身近な存在であり、私は叔父が治療によって人を救い、誇り高く仕事する姿を見て、漠然とした憧れを抱いていました。
しかし、高校の進路選択までは医師になろうとは考えていませんでした。当時は理系分野が得意で、どの領域に進むかを迷っていました。そんなとき叔父から「数学や物理の世界は、脳の構造的に20代までが勝負。しかし医学なら、年齢に左右されず経験を積むほどによい仕事ができますよ」とアドバイスをもらったのです。「なるほど。ずっと成長し続けられる世界はとても魅力的だ」と叔父の言葉に従い、私は医師を志すことにしたのです。
医学部を卒業し、診療科を選択するときがやってきて、学生時代から興味を持っていた内科・神経内科での研修を選択しました。しかし、実際に研修医として臨床現場に出てからというもの、机上の勉学では知り得なかった様々な事実に直面することになるのです。
現在とは違い、当時は各領域において有効な治療法が知られていたわけではありません。特に神経内科では、それが顕著でした。患者さんを根治する代わりに、リハビリで症状を緩和することが唯一の対処方法だったのです。
「人を救うため医師を志したのに、リハビリしか解決方法がないなんて……。どうにかして、患者さんの苦しみを根本から取り除けないものか。」
この時期、私は初めて、医師としての歯がゆさを味わうことになったのです。そして、疾患を根本的に解決できる診療科に進み、臨床および研究の両面で人を救える医師になりたいと思ったのです。
腎臓内科をローテーションしているときのこと。腎不全の患者さんに透析療法(人工的に血液を浄化する治療法)を施すと、患者さんの顔色がスーッとよくなり、苦しみから解放される姿を目の当たりにしたのです。さらに腎臓内科は、他の内科分野に比べて努力次第で様々な技術を短期間で習得できることを知ります。
「腎臓領域は臨床と研究を両立するには理想的な分野ではないか!」
こうして私は、研修医2年目で腎臓内科医への道を志したのです。
それから時が流れ、1992年、大学院に進学しました。研修医時代には「研究によって人を救える医師になりたい」と強い気持ちを持っていたにもかかわらず、私は日々研究に明け暮れる自分に疑問を持ち始めます。
「このまま研究ばかりに没頭していたら、患者さんを救うことからどんどん離れていってしまうのではないか」
しかし、自分のもとに敷かれたレールから大きく逸脱することは簡単ではありません。漠然とした不安を抱えつつも、1994年、腎臓内科の客員研究員としてワシントン大学に留学を果たしました。今となって考えると、この留学は自分にとって非常に重大な経験になりました。
留学先のワシントン大学で、私はカウザー教授と出会います。カウザー教授は腎臓内科の第一人者として医学と真正面から向き合いつつも、その研究成果を臨床で応用するという離れ業を実行していました。
カウザー教授の勇姿を近くでみていた私は、ある日、医師として大切なことに気付きます。それは「研究において問題の抽出ができて、それに論理的な回答を導き出す力があるなら、その力は臨床でも同じように応用できる」ということです。研究に突き進むことを躊躇していた当時の私は、大きな衝撃を受けました。確かな研究は臨床につながる。それをきっかけに研究に専念する決心がついたのです。
カウザー教授は、腎臓内科における偉大な研究者であると同時に、非常に有能な教育者でもありました。留学して4年が経った頃のことでした。私は海外の著名な医学雑誌「Kidney International」に総説の寄稿を依頼される機会に恵まれます。
寄稿に際してカウザー教授に学術的なサポートをお願いしたところ、驚くことに彼はこのように答えたのです。
「今回の寄稿依頼は、あなたが一人前の研究者として認められた証です。そこにもし、あなたのボスである私の名前が連なれば、あなたの医師としての功績が薄まってしまいます。私の名前は載せないことを条件にするのなら、全面的なサポートを約束しましょう。」
カウザー教授は自分が著名な医学雑誌に載る名誉よりも、後進の活躍を優先したのです。この判断に、私は大きな感銘を受けました。当時、カウザー教授のもとで学んだ研究者の多くが、現在の腎臓内科領域で世界的に活躍しています。
それは、彼が教育者として懐の深さを備え、後進の活躍を力強くサポートしてきた功績によるものだと確信しています。カウザー教授との出会いで、人を育てることに興味を抱くようになりました。そしてこの時間が、私自身がのちに教育者となる礎を築いたのだと考えています。
2年余のワシントン大学留学から戻ってからは、東海大学や、母校である東京大学で長らく腎臓内科の診療と研究に力を注ぎました。腎臓内科疾患は長期的な治療が必要なケースが多々あり、なかには私が医学部を卒業した頃から30年以上みている患者さんもいらっしゃいます。患者さんと家族のように親密な付き合いになり、私が病院を移ると、追いかけるように患者さんがその病院へ移ってきてくれることもあります。
そのような瞬間に出会うと、私はその事実に感謝するとともに、私を医師として慕ってくださる目の前の患者さんに対し「常に最善を尽くし、根気強く治療していこう」と改めて奮起するのです。
私は医師として非常に幸せな人生を歩んできました。それは偉大な教育者との出会いはもちろん、留学を含め多様な人生の選択肢を与えてくれた環境のおかげだと強く感じています。
後進たちにも私と同じように、幸せな医師人生を歩んで欲しい。そのために、私にはやるべきことが数多くあります。私自身がよき教育者であること、当教室をよりよい環境に整えること、教室員それぞれのライフプランに沿った選択肢を増やすこと。
「後進にも、幸せな医師人生を送ってもらいたい」
感謝の気持ちをモチベーションにしながら教育に情熱を傾ける毎日は、忙しくも、たいへん充実した時間です。私は教授になった今でも、医療に対する情熱は若い時と全く変わりません。
このように情熱を注げるのも、私が幸せな医師人生を歩めたからこそ。ですから私はこれからも、後進の医師たちそれぞれが幸せな医師人生を歩めるよう、教育者として邁進していきたいと考えています。
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東京大学医学部附属病院
東京大学大学院医学系研究科 消化器内科学 教授、名古屋大学大学院医学系研究科 消化器内科学 客員教授
藤城 光弘 先生
東京大学医学部附属病院 難治性骨疾患治療開発講座 特任准教授、骨粗鬆症センター 副センター長
伊東 伸朗 先生
東京大学医学部附属病院 総合周産期母子医療センター 講師(麻酔科・痛みセンター兼務)
坊垣 昌彦 先生
東京大学 医学系研究科皮膚科学 教授、 東京大学医学部附属病院 副院長
佐藤 伸一 先生
東京大学医学部附属病院 女性診療科・産科 准教授
永松 健 先生
東京大学医学部附属病院 副院長・老年病科科長、東京大学 大学院医学系研究科 加齢医学 教授
秋下 雅弘 先生
東京大学医学部附属病院 小児・新生児集中治療部教授・部長
高橋 尚人 先生
東京大学 医学部眼科准教授
加藤 聡 先生
東京大学大学院医学系研究科・ストレス防御・心身医学分野 准教授、東京大学医学部附属病院心療内科 科長
吉内 一浩 先生
東京大学医学部附属病院循環器内科学
武田 憲文 先生
東京大学医学部附属病院 希少難病疾患治療開発実践講座 特任准教授
田岡 和城 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科 助教
池田 洋一郎 先生
東京大学医学部附属病院 病院長、東京大学 大学院医学系研究科 外科学専攻感覚・運動機能医学講座 教授
田中 栄 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科 特任助教
菅原 有佳 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科
三谷 秀平 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科
小田原 幹 先生
東京大学医学部眼科学教室 准教授
本庄 恵 先生
東京大学医学部 眼科学教室 准教授
宮井 尊史 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科 後期研修医
山下 純平 先生
東京大学医学部附属病院 高度心不全治療センター 准教授/センター長
波多野 将 先生
東京大学医学部附属病院 眼科・視覚矯正科 講師
齋藤 瞳 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科 助教
間中 勝則 先生
東京大学医学部附属病院 消化器内科 准教授
建石 良介 先生
東京大学医学部附属病院 腎臓・内分泌内科 助教
竹内 牧 先生
東京大学医学部附属病院 助教
土肥 浩太郎 先生
東京大学大学院医学系研究科外科学専攻眼科学 教授
相原 一 先生
東京大学医学部附属病院 心臓外科 教授、東京大学医学部附属病院 医工連携部 部長
小野 稔 先生
東京大学 大学院医学系研究科 皮膚科学 講師・診療副科長(外来医長)
吉崎 歩 先生
日本循環器協会 代表理事、東京大学院医学系研究科 内科学専攻器官病態内科学講座 循環器内科学 教授
小室 一成 先生
東京大学医学部附属病院 眼科特任講師
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