ある著名人ががんで亡くなった際、「抗がん剤を拒否していた」と話題になったことがありました。抗がん剤に対して「怖い」「苦しい」などマイナスイメージを持つ人も少なくないようです。抗がん剤治療は本当につらい、苦しいだけのものなのでしょうか。今回は、「抗がん剤」のホントのことについて考えます。
乳がんの手術を受けた50代女性Aさんは、再発予防のために抗がん剤治療を勧められましたが躊躇(ちゅうちょ)しています。「抗がん剤を使うと、副作用で体がボロボロになるんじゃないんですか。髪が全部抜けてしまうとか、吐き気がひどくて食事も取れないとか、ずっと入院して治療を受けなければならないとか言いますよね。だから受けるのが怖くて……」。Aさんはためらっている理由をそのように話しました。
ほかにも抗がん剤には「治らないがんの、最後の手段」「ぐったりして、体力を奪われる」「1度始めたらやめられない」「費用が高い」――といったイメージもあるようです。
抗がん剤に「副作用」があるのは事実です。抗がん剤を含むがんの薬物療法の基本戦略は、がんの増殖を抑えたり、がんが大きくなったり広がったりする仕組みを逆手にとって治療に利用することです。一方で、薬剤の性質に応じたさまざまな影響(=副作用、有害事象)が起こりえます。薬剤の作用する仕組みを考えると、副作用と主作用は裏表の関係にあり、「抗がん剤治療で副作用が起こる」のは、やむを得ない側面があるというのが実際のところなのです。
抗がん剤はいくつかの種類に分類されます。効く仕組み(作用メカニズム)によって得られる効果(主作用)と、もたらされる好ましくない事象はどのようなものでしょうか。
主作用:活発に増殖するがん細胞の増殖メカニズムに作用して増殖を止める。増殖が活発な細胞ほど傷害作用を期待できる。
副作用:普段の生命維持活動のために増殖している細胞にもダメージがおよぶ。例えば骨髄細胞(白血球減少、貧血)、毛母細胞(脱毛)、腸管粘膜・上皮細胞(粘膜炎、下痢など)
主作用:がん細胞だけが特異的に持っている増殖メカニズムを制御している分子機構に作用して、がんの増殖を止める。
副作用:がんの細胞以外に標的分子を持っている細胞がある場合に、特徴的な傷害が起こったりアレルギーのような反応が起こったりする(間質性肺炎、皮膚障害、心機能障害、インフュージョンリアクション:輸注反応=アレルギーのような過敏性反応――など)
かつては、これらの副作用は「起こるのは仕方ない」とか、「がんの治療がうまくいっている証拠」といった誤った意識が、がん治療の場にありました。そのために、がんの治療はうまくいった一方で、副作用による吐き気や食欲低下で体力が低下して自宅での生活がままならなくなり、長期間入院のまま生活せざるを得ないといったことも起こりました。
こうした中で、2つの「キーワード」ががん治療の考え方に大きな変化をもたらします。
1つが「支持療法(サポーティブケア:supportive care)」、もう1つが「QOL(Quality of life)」です。
支持療法とは、がんに伴う症状や治療に伴う副作用の予防、症状を軽減させるための治療のことです。例えば、抗がん剤で白血球が減少した影響による感染症への抗菌薬使用▽貧血や血小板減少に対する適切な輸血療法▽吐き気・嘔吐(おうと)に対する制吐薬(吐き気止め)の使用――などがあります。
最近では副作用が出るリスクを事前に予測し、患者さんの状態に応じてリスク評価を行った上で、副作用の予防をしたり、副作用が発生しても迅速に対応したりすることができるようになってきました。
例えば、抗がん剤による「吐き気」は、起こったあとに吐き気止めを使って抑えるよりも、起こる前から予防することでリスクを下げることができます。かつては食事がとれないほどの吐き気や嘔吐を引き起こしていた薬剤も、的確な予防薬や治療を行うことによって安全に使用することができるようになってきています。
副作用の予防や軽減治療そのものには、がんを抑える効果はありません。しかし、支持療法を適切に行うことで、がん治療そのものの効果が高まることが最近の研究でわかってきました。例えば
このように、感染症や食欲低下、栄養摂取の不良といった治療に伴う副作用を抑えることは、がん治療の継続を可能にすることに加えて、体力を含めた患者さんの体調そのものを維持することにも有益です。
もう1つのキーワードQOLは「生活の質」と訳されることが多いですが、「人生の質」「生命の質」と捉えることもあります。
慢性の病気としてがんをみたときに、人間として患者さんの生活の質を豊かにする、尊厳を保つ、痛みやつらさを和らげ癒やす、という考え方ががん医療で重視されるようになってきました。「Cure(治癒)からCare(ケア)へ」という言葉にもあるように、生活の質・生命の質、患者さん自身の生に対する豊かさを大切にする考え方が広がってきたといえます。
例えば乳がんの患者さんの場合、根治が期待される場合には、副作用のリスクがあっても長期予後(生存率)がよい治療を選択することが重視されます。手術前や後に放射線療法や薬物療法を組み合わせることで治療効果を高めたり、再発のリスクを減らしたりする効果が期待されます。
一方、再発や離れた臓器への転移をきたしたとき、根治を期待することが難しくなります。そうした患者さんには、さまざまな専門性をもつ医療スタッフが関わり、悩みや不安、つらさを少しでも和らげられるようにすると同時に、「患者さんの生活状況に応じた治療方針の検討」がなされます。科学的根拠に基づくがん治療を行うことに加え、普段の生活状況をお伺いして、「なるべく仕事に影響がないように」「家庭での生活がいつもどおりに送れるように」「なるべく副作用の軽い治療になるように」などといった思いもがん医療の選択において重視されるようになってきました。
「よりよく生きる(well-being)」ことを重視し、病気や障がいがあっても生き生きとした人生を、満足感をもって豊かに生きる――このような患者さんを支える視点へと、医療のあり方も変わってきているといえます。
それに伴い、がん治療の効果は「QOL指標」といって、生活への影響や心理的な負担、副作用の程度、社会的な役割、費用対効果など生活者の視点で評価されることが多くなってきています。
抗がん剤治療と支持療法が進歩して、治療に伴う苦しさやつらさを和らげることができるようになりました。そして、治療方針に加えて、「治療ではなにを大切にしたいか」「病状の変化があったとき、どんな備えをしておくか」などについて、患者さんと医療スタッフの間でいろいろな話し合いが行われます。
がん医療は今や「患者さんと医療者が一緒につくる」と言われるようになってきました。そのために必要なことは、「信頼できる情報」と、不安や疑問があったら気軽に相談できる患者さんと医療者の「関係づくり」です。抗がん剤治療の進歩をはじめとする変化は、私たちに新しい医療との向き合い方を指し示していると言えます。
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帝京大学医学部内科学講座 腫瘍内科 教授
患者さんとご家族、地域の視点でがんを診る。 日本人の2人に1人が一生のうちにかかる「がん」。がんの診療、臨床研究とともに、研修教育に携わる。がん対策の取り組みの一環として医療に関する信頼できる情報の発信と、現場と地域のニーズに応じた普及の取り組みを実践している。