「依存症」はとてもメジャーな言葉であり、誰でも一度は耳にしたことがあるでしょう。その中には「行為・過程に対する依存症」というカテゴリーがあり、ある行為(たとえばギャンブル)などへの依存を指します。
しかし、実際に病名となっているのはギャンブル依存症だけで、インターネットゲーム依存症は議論の末、病名にはなりませんでした。ギャンブルとインターネットゲームにはどのような違いがあるのでしょうか。日本の精神医学におけるオピニオンリーダーである京都大学精神医学教室教授の村井俊哉先生にお話をお聞きしました。
まずはインターネットゲーム依存症についてですが、企業は営利活動としてこういうゲームを制作しているわけですから、ユーザーがお金を払いたくなるように、つまり課金されてでもゲームを続けたくなるように巧妙に作られています。
ただし、ユーザーに同じゲームを続けてもらうことは簡単ではありません。ユーザーが「飽きない」ゲームを制作することは、ゲーム業界にとっては永遠の課題とも言えるのです(ユーザーをずっと虜にできるようなゲームは、よほどうまくデザインされているのではないかと思います)。
つまり、ゲームの場合にはある日突然飽きてしまうことが起きるわけです。しかし、習慣性の強い薬物への依存症では、基本的にそのようなことはありません。この点がゲームへの依存症と薬物依存症の大きな違いです。
思いがけない高額の課金の請求書が届くなど、インターネットゲームでも生活に大きな損害を与えることはあります。そういう意味では大変なことではあるのですが、寝食忘れて何か月も続けていたゲームでもある日突然飽きてしまうあたりが、アルコールやコカインとは基本的に異なっているのではないかとも考えられるわけです。このような違いを根拠に、「インターネットゲーム依存症は、アルコールやコカインなどの薬物依存症ほど深刻な問題ではない」という意見を持っている専門家もいるのです。
ここからは、インターネットゲーム依存症とギャンブル依存症の違いについて考えてみます。ギャンブル依存症が病名となっていて、インターネットゲーム依存症がそうなっていない理由は、いったい何なのでしょうか。ここからは私が考える「答え」らしいことを述べてみます。
この2つの違いは、お金を賭ける要素が(ほとんど)ないか・あるかということです。もちろんインターネットゲームにも課金のシステムがあり、そこには賭けの要素はあります。しかし少なくとも現時点では、カジノなどのギャンブルと比較すると、金銭のやり取りの規模は低く抑えられています。高額な金銭を短時間でやり取りするギャンブルは、インターネットゲームよりも、私たちの心の働きの中のより本能的な部分をくすぐるのではと、私は考えています。
つまり、複雑なルールやシナリオのあるゲームは、心の働きの階層でいうと単純なお金のやりとりよりも上の階層の部分に関係し、一方でギャンブル(=お金の勝ち負け)は下の階層、つまり本能的欲求に関係するのではないかと考えています。
カジノに行ったことのある方の中には、そこに並んだ様々なゲームを見て、ある不思議な感情を持たれた方もいるかもしれません。ほとんどのゲームが、例えばルーレットのように、何の工夫もないゲームなのです。複雑なシナリオやルールを持つ多くのインターネットゲームとは対照的です。ゲームとしてのクオリティにおいては、おそらくカジノのゲームは最低ランクでしょう。しかし、それでもやめられなくなることの理由はただ一点、お金を賭けているということにあるともいえます。
私たちヒトは合理的でない部分をたくさん持っています。例えば、競馬で第1レースから賭けつづけ、最終レースを迎えたとしましょう。そんなとき、「ここまで負け続けたのだから、そろそろ次は勝つのでは」という直感を持つ人もいるのではないでしょうか。次のレースで勝つか負けるかは、今までの連敗とは全く関係ないということは、確率をちょっと勉強している人であれば気づくはずです。また、ギャンブル好きの人の中には、「自分には特別な運がある」と信じている人も多いですし、日によって「今日はついている」「今日はつきが離れていった」などと考えている人もいます。
大学で理系学部を卒業したような人、勝ち負けの確率計算も期待値計算も難なくできる人であっても、いったんそのような状況に身をおくと、奇奇怪怪なジンクスを本気で信じてしまうのです。つまり、ヒトは本来合理的な生物ではなく、その本能の中には合理的でない部分が多く含まれているのですが、このような心のスキに入っていくのがギャンブルです。だから、お金がかかっているわけではなければばかばかしくてすぐに飽きてしまいそうな「単純」なゲーム、例えばルーレットなどに、大人が熱中してしまうのです。