救急医学とは、外傷や病気などにより来院した患者さんに行う救急医療や、それらに関連する学問・研究などのことを指します。現在、独立行政法人労働者健康安全機構で理事長を務めておられる有賀徹先生は、脳神経外科医からスタートして日本の救急医学の発展に貢献されてきました。
救急医学が浸透していなかった時代に救急医療を志した理由や、今では救急医学で有名な公立昭和病院で救急医療を行うようになった経緯についてお話を伺いました。
救急車で緊急搬送されてくる方の多くは、まさに生きるか死ぬかの瀬戸際にあります。いかに早く搬送時と救急外来で処置を行うかによって、その方の生存率は大きく変化します。救急医療を担当する医師は、患者の状態を診てあらゆる可能性を視野に入れて原因を探り出し、少しでも生につなげるため治療を行います。
救急外来では救急車によって常に患者が搬送されて来るため、担当の医師は複数の患者を同時進行で診療することも日常的に求められます。
そして処置の早さは生存率だけでなく、後遺症の有無にも関係しています。特に脳梗塞やくも膜下出血のように脳に多大なダメージを与える疾患では、治療までにかかった時間や処置によっては、片麻痺など後遺症に影響することもあります。
搬送されてきた方の死亡率を下げ、かつ後遺症を残すことなく健康を取り戻すか。このような難題に向き合う救急医学は、まさに時間がカギを握っているといっても過言ではありません。
日本の救急医学が現在のようなかたちに発展するようになったのは戦後、関東ではまず日本医科大学が、その後に私の母校である東京大学、関西では大阪大学が本腰を入れた頃からです。ちょうどこの頃は社会構造の変化が生じている時期でもあり、街中にたくさんの自動車が走るようになりました。自動車の普及に伴い全国的に交通事故が増えはじめたため、車に人がはねられた時に緊急の対応ができる医療機関が求められるようにもなったのです。
医学部を卒業すると研修医として臨床経験を積む期間があるのですが、私が研修医だった時代は全国的に脳神経外科が増えはじめた時代でした。
しかし当時は、現在のように精度の高いレントゲンやCTがあるわけではなかったため、ニューノロジー(神経学)を駆使して髄膜腫の場所を推察して手術を行うといった、現在では考えられないような診療が当たり前に行われていた時代でもあったのです。
病院の救急部(門)には交通事故などによる外傷者が続々と運ばれてきて、担当する医師は体系的な診察手順やこれまでの治療経験を基に、神経だけでなく肺や骨盤などといった全身の状態を診ます。
当時の一般的な外科の分野では、内科医が診断を行ったのち外科医が手術を担当する分業制が始まりつつあったため、一人の医師が診断から治療まで一貫して担当するスタイルに、勉強し甲斐や面白味を感じたため、まずは脳神経外科から、その後に救急医学の世界に飛び込みました。
救急部(門)には、一般的な急病の患者さんが運ばれてくるだけでなく、これまで脳神経外科に運ばれていた重症の脳外傷患者も大量に運ばれてきます。
現在の研修医制度では、内科や外科など基本的な診療科を複数経験してからそれぞれの専門分野に進みます。しかし私の場合、脳外科と救急部において多くを学んだため、現場での経験に基づく実践的な知識によって全身を診ることができる、当時としては珍しい医師になることができました。
先のことを見据えながら、自分が正しいと思ったことをきっちりと実行することが大切と考えています。これからご紹介する公立昭和病院の救命救急センターの開設は、その一例といえるでしょう。
先に紹介した東京大学の救急部では4年ほど勤務していましたが、この期間に「救急に関する治療や付随する教育を『救急医学』という学問体系として、系統的に学んで実践できる環境を整える必要がある」と感じていたことが、のちに救急医療の体制づくりにおける大きな原動力となりました。
東京大学の救急部で経験を積んだのち、今度は公立昭和病院で脳神経外科部長として働くことになりました。現在多くの方に広く知られている公立昭和病院の救命救急センターはまだ発足しておらず、他の病院と同じように脳神経外科も救急搬送されてきた患者の対応に追われていました。
そして病院周辺は、地域的・地理的条件などにより救急車を受け入れることができる病院が少ないことから、救急医療が思うように機能していないエリアでもありました。
かねてより救急医学の発展について考えていたことや、公立昭和病院が置かれている地域の状況を把握したことなどにより、当時公立昭和病院に集まっていた医師や看護師達と協力して、地域の救急医療を支える病院になる決意を固めました。
公立昭和病院で救急医療を始めるに際し、ふたつのことを行いました。ひとつは院内で救急医療を専門とする部門に「救命センター」の呼称を付けると同時に、センター内においてクリティカルケア(集中治療)が実践できるように整備すること。もうひとつは公立昭和病院のある小平市を管轄する多摩地区の消防本部に対して、院内の救命センターで重症患者を搬送する救急車の受け入れが可能であることの申し入れでした。
公立昭和病院からの申し入れを受けた多摩地区の消防本部からの回答は、「ぜひともお願いしたい」という非常に前向きなものでした。公立昭和病院の救命救急センターの歴史はこうしてスタートしました。
多摩地域の救急医療を公立昭和病院が担当できるという申し出が実現可能になった背景には、以前勤務していた東大病院救急部で、ある程度のノウハウを蓄積していたことに加え、公立昭和病院のある小平市や周辺地域の土地勘があったことや、地元の医師会ともある程度面識があったことも大きいといえるでしょう。
前例がないことをやるとき、自身が前例になることが求められます。当時の公立昭和病院が行ったことは当時まだ前例がないことだったため、救命センターや内部のシステムはまさにゼロから作り上げる状態でした。
公立昭和病院にとって救命センター設立は大きな出来事だったため、医学部を卒業して10年目程度の若手医師だった自分に対し、脳神経外科部長だけでなく救命センターの設立を任せていただいたのは想像以上に大変なことでした。
救命センターの設立や維持が成功したのは、当時院長をしていらした崎田隆夫先生による支えや、初めての試みであったにも関わらず一緒に取り組んでくれた医師や看護師の協力によるものが大きな要素でした。
ある医療機関の先生からは、「近隣地域の医療機関は二次救急医療を頑張るから、公立昭和病院は条件が揃っていないと実施できない三次救急医療を頑張って欲しい」と頼まれまるまでになりました。
※「二次診療・三次診療」について、くわしくはこちら
公立昭和病院に救急センターを開設して多摩地域や埼玉県など広い範囲から患者が搬送されるようになるにつれ、センター内独自のシステムを導入するようしました。
救急部門には医師の診療をサポートする看護師の活躍が欠かせません。
例えば当時の公立昭和病院の脳神経外科では、従来のとおり脳神経外科を専門とするチームと救急センターは分かれていましたが、脳神経外科で脳腫瘍や脳血管障害などの手術を実施している最中に、交通事故や転落などによって新たな患者が救急センターに緊急搬送されて対応に追われるということが頻繁に起こります。
そのため医師は次から次へと運ばれてくる患者の診療が求められるのですが、使用する点滴など看護師に出す指示をある程度フォーマット化することで診療のスムーズ化を図りました。
また一部の看護師に対しては、万が一の事態が発生した際には医師である私が責任を持つと約束をして、かなり難しい内容の診療の補助をお願いすることもありました。これは今で言う「看護師による特定行為」です。
医療法によって医療機関は、一次医療(健康診断や風邪など日常的な診療)、二次医療(外来の他に入院手術などによる対応が求められる)、三次医療(救命救急センターのように高い専門性が必須)の3種類に分けられます。
救命センターの開設により公立昭和病院は三次医療を担う病院となりましたが、従来通り二次医療を求めて外来を利用する患者さんもいました。しかし来院する患者さんをすべて受け入れると、今度は病院がパンクしてしまいます。
そこで退院した患者さんの診療を、地域の診療所やクリニックなど一次診療を担当する医療機関にお願いするようにしました。このように病院とクリニックや診療所が連携して診療を行うシステムは、現在では「病診連携」と呼ばれています。
病診連携では、医師が病院機能に見合った医療に専念できると同時に、利用者である患者さんに対しても待合時間の短縮など医療機関へのアクセス改善というメリットがあります。
東京大学で4年間、その後公立昭和病院で10年間脳神経外科と救急医学をしてきましたが、その後は医学教育のなかに救急医学の基礎を作るべく、昭和大学医学部で救急医学講座の主任として後進の育成に力を入れ始めました。
日本病院会主催 公開シンポジウム『病気をしても働くために!』平成29年7月12日(水)開催
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