「あなたは患者さんの目線に立っている人間なのね」と、以前私が担当していた患者さんからいっていただいたことがあります。そのとき、「あぁ、そうか、私は患者さんのために働いているのだ」とはじめて気づかされました。どうして私が医師になり、なぜ自然と患者さんのために働くようになったのか。振り返ってみると、私が積み重ねてきた経験と、父親が大きく影響している気がします。
祖父と父は大学病院の医師、私はいわゆる医師家系に生まれ育ちました。父は、患者さんからいただいた感謝の手紙を家に持って帰ってくることもよくありました。
「患者さんが手紙をくれるほど感謝されるって、医師とはなんて凄い仕事なのだ。」
中学生の頃には、すでに漠然とした医師への憧れを抱いていました。
しかし、父の労働環境は側から見ても過酷なものでした。日曜日も家にいるのかいないのかわからず、睡眠時間も毎日わずか4時間ほど。その姿を見ているうちに、医師への憧れは消え去り、高校生の頃には「医師にはなりたくない」と考えるようになっていたのです。そして、そのまま私は経済学部に入学してしまいます。
しかし、いざ経済学部での大学生活が始まってみると、患者さんのために精一杯に働く父の姿がふと頭に浮かびました。それと同時に、父へ憧れを抱いていた自分の姿を思い出したのです。
「私も医師になりたい」
そこからは、一念発起。もし1年間の努力で合格できなければきっぱりと諦める、という強い決意をもって勉強しました。その結果、翌年、東京慈恵会医科大学医学部への門が開かれたのです。
「この病気を治せる医師は、まだ世界に誰もいません。この中から出るといいですね」
これは、私が医学部6年生のとき受講した潰瘍性大腸炎というクローン病の講義中に、私の恩師の鳥居先生が発した言葉です。「まだ世界に誰もいません」という言葉を耳にした私は、痛々しい内視鏡の写真を目にしながら「よし、自分がこの疾患を治す医師になろう」と決意したのです。
その講義の後に鳥居先生のところへ行き、「この病気を治せる方は、本当に誰もいないのですか」と確認しにいったことは鮮明に覚えています。そして、「本当にいない。興味があるなら、君がやってみないか?」といわれ、私は消化器内科の世界へと足を踏み入れることを決心しました。
大学病院で勤めて5年が経とうとしている頃、私は大学院への進学を決意しましたが、一体大学院とはどのように研究を進めれば良いのか、全くみえませんでした。そんな時、当時の主任教授であった戸田剛太郎教授に「クローン病は、内視鏡で病理を学ぶべきだ」との助言を頂き、東北大学の病理学教室へ国内留学することになったのです。
東北大学で2年間お世話になった病理学教室の笹野公伸教授の指導は厳しいものでしたが、そのご指導のおかげで、私は通常4年間のところ1年短縮した3年間で東京慈恵会医科大学大学院を卒業することができました。
また、東北大の病理学教室では、亡くなって間もない患者さんのお身体から病態をみることが大切であるとの考えで、病理解剖医の当直がありました。直接、患者さんのお身体から学ぶ知識は、他の患者さんへの治療に繋がる大切なものですが、深夜1時や2時からの病理解剖は精神的にも厳しいものでもありました。ただ、東北大学で何例もの病理解剖をさせていただいたことは、私の医師人生にとって大変貴重な経験となりました。
予想外に大学院を1年早く卒業できた私は、引き続きアメリカの病院で2年ほど武者修行に行くことにしました。そこで私のボスであったStephan Targan教授に「君はどんな医者になりたいのかな。ホームラン王?それともヒットを多く打ちたい?」と聞かれたことがあります。
「もし、君がずっと研究だけを続けたいなら、ホームランを狙った研究をすればよい。しかし、臨床も続けるつもりなら小さな仕事をコツコツ積み重ね、ヒットを多く打つ癖をつけるとよいだろう」とアドバイスをされました。即座に後者を選んだ私は、ボスから6つの論文テーマが与えられ、2年間の留学中に何とか5つを論文化することができました。
医師であれば誰であれ、ビッグジャーナルに載るような研究をしたいと思うはずです。しかし、その実現には、裏付け研究だけで何年もの時間を費やす必要があります。そうではなく、日々の小さな疑問をひとつひとつまとめ、研究し、患者さんに新しい治療法を提供していく。私はこの道を選びましたが、この考え方を教えてくれたボスには大変感謝しています。
アメリカ武者修行も2年を過ぎ、あと1年頑張ろうと決意を新たにしていたところ、当時の慈恵医大主任教授であり恩師である田尻教授から、消化管領域を診ることができる医師が少なくて困っているという連絡をうけました。もう少し留学を続けたいという気持ちはありましが、母校の教室がピンチと聞けば、帰らない訳にはいかないと思い、帰国を決意しました。帰国後、本当に消化管領域を診る医師が少ないと実感した私は、医局に消化管班の再編成を試みました。最初は人数も少なく小規模な班でしたが、2017年現在は人員も増え、最も大きなな研究班へと成長を遂げました。
私は、当時43歳のときに、最年少で東京慈恵会医科大学内科学講座の教授に選考されました。しかし、この教室でいわゆる「トップの座」に君臨するつもりはありませんでした。もちろん、教授という立場は人を育てることが求められます。
教授はマラソンでいうペースランナーであるべきだと考えています。マラソン大会では、先頭を走るペースランナーがよいランナーであれば、後ろを走るランナーも優秀な記録を出すことができ、ときに世界新記録もでるといいます。私は大学の教室も、これと同じと思っています。
私がペースランナーとして正しく先頭を走れば、同じ意思を持った医師は必ず後ろからついてきてくれますし、成果は自ずと出るはずです。私自身も目一杯育ちながら、気付けば次世代のリーダーも育成されている。そんな教室にしたいと思いますし、今もその思いは変わりません。
今は、ガイドラインをパッと開けば、どの治療薬を使ってどういう治療をすればよいのかすぐにわかる時代です。そのため、医師の果たすべき職務は、ある意味単純化しているのかもしれません。
さらに、ガイドラインに書かれていることを鵜呑みにしすぎて、自分で検証することを止めてしまう医師が多いことも事実です。なぜその薬でなければならないのか、相性のよい薬は何か、投与量はどうすればよいのか、など、医師とは、患者さんのためにもう一歩踏み込んだ考え方を持つ存在であると思っています。
医学の最終的な目標は、その疾患を完治させる治療法を生み出すことです。医師とは、その過程で患者さんのために全力を尽くす仕事で、それが医師の責務だと考えています。
この記事を見て受診される場合、
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東京慈恵会医科大学附属病院
栄樹庵診療所 院長、東京慈恵会医科大学 精神医学講座 客員教授、東京慈恵会医科大学附属病院 精神神経科 客員診療医長
繁田 雅弘 先生
社会保険診療報酬支払基金東京支部 医療顧問、東京慈恵会医科大学 客員教授、東京慈恵会医科大学附属病院 糖尿病・代謝・内分泌内科 客員診療医長
横田 邦信 先生
東京慈恵医科大学 内科学講座脳神経内科 教授、東京大学医科学研究所 非常勤講師
鈴木 正彦 先生
学校法人慈恵大学 理事/東京慈恵会医科大学 特命教授
井田 博幸 先生
東京慈恵会医科大学 眼科学講座 主任教授
中野 匡 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 耳鼻咽喉科 助教
加藤 雄仁 先生
東京慈恵会医科大学 教授
浦島 充佳 先生
東京慈恵会医科大学 腎臓・高血圧内科 主任教授、東京慈恵会医科大学附属病院 診療部長
横尾 隆 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 病院長
小島 博己 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 眼科 准教授・診療医長
増田 洋一郎 先生
東京慈恵会医科大学 総合医科学研究センター遺伝子治療研究部・小児科学講座 准教授
小林 博司 先生
東京慈恵医科大学附属病院 副院長、厚木市 前病院事業管理者、厚木市立病院 前院長
山本 裕康 先生
東京慈恵会医科大学 小児科学講座 准教授、東京慈恵会医科大学附属病院 小児科 診療医長
小林 正久 先生
東京慈恵会医科大学 総合診療内科 教授
大野 岩男 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 所属
飯田 貴絵 先生
東京慈恵会医科大学 皮膚科学講座 講師
石氏 陽三 先生
東京慈恵会医科大学 皮膚科学講座 主任教授
朝比奈 昭彦 先生
東京慈恵会医科大学眼科学講座 講師
田 聖花 先生
東京慈恵会医科大学 泌尿器科 講師、診療副部長
三木 健太 先生
脳神経外科東横浜病院 副院長、東京慈恵会医科大学附属病院 脳神経外科 診療医長・講師
郭 樟吾 先生
学校法人慈恵大学 理事長、東京慈恵会医科大学 前学長・名誉教授
栗原 敏 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 耳鼻咽喉・頭頸部外科 講師
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東京慈恵会医科大学附属病院 耳鼻咽喉・頭頸部外科 助教
竹下 直宏 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 耳鼻咽喉・頭頸部外科 講師
森下 洋平 先生
東京慈恵会医科大学附属病院 教授/腫瘍センター センター長
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