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がん遺族の悲しみを癒す医療を-最愛の妻を看取ったがん専門医の想い

がん遺族の悲しみを癒す医療を-最愛の妻を看取ったがん専門医の想い
垣添 忠生 先生

公益財団法人 日本対がん協会会長/国立がんセンター名誉総長

垣添 忠生 先生

家族を病気で亡くす経験は、誰にとっても耐えがたく辛いものです。国立がんセンターの名誉総長である垣添忠生先生は、ご自身の専門である「がん」により、約40年の結婚生活を共にした奥様を亡くされています。がんにより配偶者を喪う方は年間20万人にものぼり、垣添先生のご著書『妻を看取る日』(新潮社)は、刊行当時から現在に至るまで、遺族となられた方々の共感を呼び続けています。

身近な人との死別という悲しみを、私たちはどう受け入れ、生き続けていけばよいのでしょう。垣添先生のご経験と、遺された家族のための医療についてお話しいただきました。

2007年の冬、私は40年連れ添った最愛の妻を、自身の専門である「がん」で喪いました。

妻は78年の人生のうちに、3回ものがんを経験しています。

最初のがんは、肺の隅に生じた肺腺がん。妻が71歳のときに発症したこのがんは、肺の部分切除術で治せるものでした。

その2年後に見つかったのは、頸部リンパ節に転移した甲状腺がん。声が嗄れるという典型的な症状が現れたため検査を受け、このがんも手術により治しました。

私はもとは泌尿器科の医師でしたが、国立がんセンターの病院長や総長といった管理職も務めておりましたので、およそ20年にわたり、全てのがんをみてきました。ですから、この2つのがんは医療の力により治せるとよくわかっており、がんだとわかっても決して動揺することはありませんでした。私からの説明を受けた妻も同様です。

ただし、肺腺がんも甲状腺がんも、肺に転移する可能性を孕んでいます。ですので、定期的に肺の画像検査を受けては、何もないということを確認していました。

ところが、ある時の検査で、右肺の下葉の中央部に4mm程度のカゲがみつかったのです。それは喩えるならばリンゴの種のような小さなカゲで、発見した時点では診断をつけられるものではありませんでした。

このようなときには経過観察を行うことがふつうですので、妻も日常通りの生活を送り、3か月後に再び検査を受け、異常がないことを確認しました。それから3か月後、“リンゴの種”の発見からは半年後の検査に立ち会い、4mmだった小さなカゲが、6mmに大きくなっていることを確認しました。私の目でみても、カゲは上が小さく下が大きな“雪だるま”様の形に変わっており、これはがんだと確信しました。

肺にがんがみつかった場合、一般的には下葉切除術で腫瘍を取り除きます。しかし、私の妻は若いころからSLE全身性エリテマトーデス膠原病の一種)を患っており、長い間ステロイドを服用していましたので、下葉の切除手術をすると生涯酸素ボンベを引いて生活することにもなりかねない危険がありました。そこで、外科医と放射線治療医に同席してもらい、議論を重ねたうえで、「陽子線治療」を受けることに決めました。陽子線治療とは、約1か月病巣に放射線を集中的に当てる治療法で、妻は千葉県柏市にある国立がんセンター東病院に入院して治療を受けました。約1か月の治療により、がんはきれいに消失し、私も妻も喜んで普段の生活に戻りました。

肺門部のリンパ節に転移が生じたのは、それからわずか半年後のことです。

妻に対しては「転移は1か所だからなんとかなる」と励ましの言葉をかけつつも、心のうちでは、これは怖いがんであると認識していました。この時点で、針生検により、小細胞肺がんであることが確定したのです。

そこで、当時最強と謳われた2つの抗がん剤、シスプラチンとエトポシドを組み合わせた化学療法を4回にわたり行い、更に肺門部に対しては、通常の放射線治療をも行いました。念には念を入れ、可能な限り慎重を期して、当時最高レベルの治療を行ったというわけです。

万全ともいえる治療を終えた私たちは、奥日光、そして北海道への旅行に出かけ、3か月後の10月に、がんが完全に消失したことを確認するためというつもりで検査を受けました。

CT検査やMRI検査など一通りの検査を終え、診断医から告げられたのは、完治どころではなく多発性の肺転移、肝転移、脳転移、骨転移。その瞬間、これでもう、妻の命は長くて3か月だと悟りました。

その夜、妻には担当医から画像を見せながらの説明とともに事実が正確に伝えられ、私の口からも、改めて妻に事実を伝えました。新しい抗がん剤を使うしかないという提案に、妻は受けると決断しました。この治療では、妻も随分と苦しんだものです。

10月、11月、12月と3か月入院し、結局最後は「家で死にたい」というので、12月28日から翌年1月3日まで、病院には外泊届を提出しました。形式上は外泊届を出したわけですが、私も妻も、家で死ぬために帰るという思いで帰宅したのです。

誰に気兼ねすることもなく過ごしたいということで、訪問看護師の方にはお断りを入れ、私自身の手で妻の看護を行いました。診療の現場から離れて久しかったため、病棟看護師から点滴のセットなど、何から何まで再訓練を受け、自宅に酸素供給機も運び入れました。

12月28日、帰宅初日。

「やっぱり家ってものはこうでなくっちゃ!」と、妻は久しぶりの我が家に大いに喜んだものです。その翌日から意識が徐々に途切れてゆき、大晦日の朝、妻は昏睡状態に陥りました。

12月31日、夕方。

妻の意識が突然に戻り、目をパッと見開いて私を見つめ、そうして自分の右手で私の左手を強く握り締めて、妻の首がガクと折れたのです。それが心肺停止の瞬間でした。言葉はありませんでしたが、妻は「ありがとう」と感謝をして亡くなったのだろうと思いました。

また、わずか4日ではあったものの、家で妻と最期の時を過ごし、全神経を集中して自分で看取ることができたのだという、満足感に似た思いもありました。

妻の入院中、私は朝に、昼に、晩にと、頻繁に部屋を訪れては、元来おしゃべりな妻と様々な話をしました。また、看護師さんのケアを手伝うたびに、妻の体の温かさを手の平に感じることができました。

その体が冷たくなり、死後硬直が起こり、最後には灰になって帰ってくる。一切の対話ができなくなるということは、どれだけ覚悟をしていても、実際には本当に辛いものです。

それから3か月間は、家の中の何を見ても涙が出てくるので、ただ泣いては、ひたすらに強い酒をあおる日々を過ごしました。死ねないから生きていたといっても過言ではありません。

それが3か月ほど経ち、どうしても生きざるを得ないのであれば、こんな生活を続けていてはいけないのではないかという思いが芽生え始めました。

ちょうど同じころ、妻の実家近くのお寺に相談に行き、「百か日法要」を行ってはどうかと勧められました。仏教の世界では、人が亡くなると、初七日や四十九日など、7日ごとに大切な行事があるといいます。そうして死後100日、およそ3か月の期間が経つと、残された人達はようやくその人が亡くなったことを得心するのだそうです。

私は仏教徒ではありませんが、大事な機会だからという勧めもあり、親戚に集まってもらい百か日法要を行いました。

そのころから少しずつ、以前の習慣であった腕立て伏せや腹筋、背筋などの運動も再開するようになりました。すっかり体力が低下していたため、最初は数回で息が上がってしまいましたが、徐々に回数を増やし、身体面での健康を取り戻していきました。

体調がよくなると、気持ちも少し前を向き、生きる気力も湧いてくるものです。

1年がかりで、私はようやっと見かけの上では「ふつう」の状態に戻れたように思えます。

孤独なおじいさんイメージ画像

日本では、がんにより年間で38万人近い方が亡くなっており、配偶者をがんで亡くした遺族は20万人にものぼります。夫婦の形は様々ですが、20年とか30年連れ添った相方を失うことは、人間の精神に強い衝撃を与えます。その衝撃の受け方は、人により異なります。

配偶者を亡くしても、1年ほどで見かけ上は元に戻ってこられる場合を、「ノーマル・グリーフ」と呼びます。しかし、元々うつ傾向がある人の場合などには、3年から5年という長い期間、悲しみの底から這いあがれないこともあります。また、悲しみや衝撃に耐えきれず、自死される方もいます。

けれども、がん遺族の方で、自ら声を上げてSOSを発信できる人は、あまりみかけないものです。

なかには、最も辛い時期を乗り越えるために、臨床心理士や精神科医に話を聞いてもらう方や、眠れない状態を解消するために睡眠剤を処方してもらう方もいます。しかし、多くの遺族は、「医療」まで辿りつくことができないまま、苦しんでいます。

助けてほしいという声を発せない遺族に、医療はどう対応していくべきか。これは、がんによる死亡者が増え続けている日本において、非常に大きな問題といえます。

空病室イメージ画像

1950年代には、日本人の約8割が家で亡くなっていました。誰かが亡くなるときには家族全員が床を囲み、体が冷たくなっていく様子を見つめることが、日常生活の中でごくごくふつうに行われてたのです。しかし、現在では病院で亡くなる方が約8割になり、「死」というものを、リアルな体験を通して理解する人は大きく減りました。

たとえ病院で付き添っていても、心マッサージを行うときには、ご家族は病室の外へと出されます。そうでない場合でも、ご家族の目線は、心電図の波形に向けられていたりして、患者の死を凝視する機会は減りました。

結果、葬儀に忙殺される時期を過ぎると、遺族は突然に悲しみと喪失感の中に放り出されてしまうのです。

ところが、遺族が1か月近く悲嘆に暮れていると、「死」が身近でない周囲の人々は、良かれと思って適切ではない言葉のかけ方をしてしまいます。

「いつまでもメソメソしていると、亡くなった人も悲しむわよ。」「泣いてばかりでは体に悪い。」

こういった声かけはグサリグサリと突き刺さるばかりで、遺族にとって、悲しみはつのる一方です。私自身も、善意による言葉に何度苦しんだことかわかりません。

今、「グリーフケア」が各所で行われています。グリーフケアとは、身近な人と死別した方の悲嘆や危機的状況に寄り添い、支援することです。私は大阪や神戸の遺族会で講演を行ったことがありますが、そこでは過去にグリーフ(悲嘆)を経験した人が聞き手となり、現在グリーフの時期にある人の話をひたすらに傾聴するという、適切なケアが行われていました。

聞き手は、病気や交通事故、あるいは自死によってご家族を亡くされた方ばかりですので、「そろそろしっかりしなさい」といった発言をする人は一人もいません。死別の悲しみを乗り越えるためには、十分に悲しみ、その想いの丈を発することが大切です。

私の場合は、妻の死から1年経ち、つれづれに妻の病歴を書き起こしてみたことがきっかけとなり、それが私の心の底の深い悲しみを表出する行為だと気がつきました。多事に惑わされることなく、ひたすらに「書く」という行為が、私にとってはカウンセラーに話を聞いてもらうのと同等の意味を為したのです。このとき書いた本が、ドラマなどにもしていただいた『妻を看取る日』です。

出版後には、がんで配偶者やご両親、お子さんを亡くした沢山の方からお手紙をいただきました。その中には、「がんの先生でも、がんで奥さんを亡くすことはこのように苦しいものなんですね。私ももう少し耐えてみます。」といったものが多く、世の中にはこんなにも沢山、悲しみを抱えて生きている方がいるのかと驚きました。

書籍の副題には「国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録」とありますが、やはりがんの専門家であっても、がんで妻を喪うことは心底こたえるものです。なんと皮肉なことか、と感じたこともありました。

また、わずか4mmで発見し、6mmで治療を始めたがんを治せなかったという経験は、難治がんの恐ろしさと難しさを身をもって知るという、辛い機会にもなりました。こういったがんを克服するには、基礎研究を重ねるしかないでしょう。現在、私は日本対がん協会の会長として、研究費の工面にも注力しています。この件についてはまた別の記事でお話ししましょう。

四国お遍路イメージ画像

『妻を看取る日』を執筆してから約7年、私の中で妻を喪った悲しみが消えることはありません。死別による悲しみから立ち直るまでの過程(グリーフワーク)には、非常に長い期間を要します。

昨年の夏、私は妻の慰霊の目的で、四国遍路の旅に出ました。最も過酷といわれる盛夏に、徒歩で600kmにもおよぶ遍路参りを実践したこの経験は、私のグリーフワークにおける重要なプロセスのひとつとなりました。

汗にまみれて、徳島県、高知県と歩みを進めていく中で、幾たびも妻のことを想い、そのうち、これは慰霊ではなく妻に対する感謝の旅であることに気づきました。この経験を『巡礼日記』として、本にまとめました。

思考能力がゼロといえるほどの消耗状態から、徐々に足腰が強くなり、それと共に思考も活性化されてゆき、様々な発想が生まれてきます。その過程で、何度も何度も妻に守られていると感じ、「ありがとう」の言葉がポロリと自然と出てくるのです。

盛夏の四国遍路は想像以上の苦痛を伴うものでしたが、精神と肉体のバランスを保つこと、健康であることとはいかなることかを教えてくれます。私は今年も四国へ旅立ち、今度は愛媛県を歩きました。来年には香川県を歩き、この旅を完結させるつもりです。

垣添 忠生先生の著作

  • 公益財団法人 日本対がん協会 会長

    垣添 忠生 先生

    1967年東京大学医学部医学科卒業。国立がんセンターにて、中央病院長、総長などを歴任し、現在は財団法人日本対がん協会会長として全がんの対策に尽力している。法に基づくがん医療の展開を訴え、「がん対策基本法」の策定にも力を注いだ。自身ががん患者・がん患者遺族となった経験を持ち、グリーフケアやがんサバイバー支援のための取り組みも精力的に行っている。