建物の倒壊により救命救急処置が必要とされた阪神・淡路大震災とは異なり、東日本大震災では発災後早期のリハビリテーションが求められました。このような差異は、被災地の高齢化率や災害の特徴、時代など、さまざまな要因が絡み合って生じます。宮城県気仙沼市へのリハビリテーション支援を行なうなかでみえた課題と、医療支援者に必要な心構えについて、山形大学医学部附属病院・副院長の高木理彰先生にお伺いしました。
東日本大震災の発生から約3週間が経過し、山形県の一時避難所が落ち着きを取り戻した頃、私は気仙沼市災害医療コーディネーター本部リーダーの成田徳雄先生から、「リハビリテーションスタッフに応援に来て欲しい」という連絡を受けました。
宮城県気仙沼市は大津波によって甚大な被害を受けた地域です。そのため、避難することができた方は、内陸部で震災に見舞われた場合とは異なる問題を抱えていました。
1995年の阪神・淡路大震災では、倒壊した家屋の下敷きになってしまうことで起こる圧挫症候群(別名、クラッシュシンドローム)など、救命救急処置が必要となる大怪我が多発しました。しかし、2011年の東日本大震災では、多くの場合残念ながら津波により生死がわけられてしまい、救命救急処置が必要な怪我を負った方は割合としては想定より遥かに少ない数となりました。
津波の難を逃れて避難所まで辿り着いた方の多くは、服や靴が流されてしまい散歩にも出られない状況のなかで、日を追うごとに体力を失っていく傾向がみられました。そのため、成田医師はリハビリテーションの必要性を感じ取り、山形県でリハビリテーション医療を行っていた私に連絡したのだといいます。
視察に伺った山形大学のリハビリテーションスタッフは、発災直後に山形県に避難してきた福島県の被災者の方々の対応をしていたため、リハ・トリアージのノウハウを持っていました。山形県とは全く異なる、気仙沼市の過酷な生活環境を目の当たりにした彼らは、初動対応で即座にリハビリテーションの必要度が高いと判断し、応急対応を行いました。
2つの大震災では、問題となった病態が異なるため、必要とされた医療の質や体制も大きく異なるものとなりました。圧挫症候群が大きな問題となった阪神淡路大震災では、都市部を中心とし、ある程度限局された地域に災害が起こりました。そのため、急性期における救命救急処置が必要とされ、「病院完結型医療」が重要な役割を果たしました。
しかし、廃用症候群や津波による低体温症、ロコモティブシンドロームなど、急性期から慢性期疾患が問題となった東日本大震災は、被災地域が東北から北関東の太平洋沿岸の極めて広い範囲にわたり、また、多くの高齢化した過疎地をも巻き込みました。そのため、地域完結型医療と地域包括ケアも必要とされました。
廃用症候群やロコモティブシンドロームが主体となった理由としては、被災地の高齢化率の違いがあげられます。
阪神・淡路大震災の被災地となった兵庫県の高齢化率(全体における65歳以上の方の割合)は10%強でしたが、気仙沼市では30%を超えていました。
(※いずれも発災当時の数値)
また、都市部に局所的に地震が生じた阪神・淡路大震災では、周囲に倒壊せず機能している医療機関も存在しましたが、東日本大震災は過疎化が進む広域的なエリアが被災しました。
このように、過疎地に広域に生じた複合災害であったために、地域包括ケアの重要性が叫ばれたのです。具体的には、医薬分業や医療介護分離、病期ごとのリハビリ機能分化などが求められました。
以上のように、災害に見舞われた地域の人口構成や時代、地域的特性により、災害に対する医療の在り方は大きく変わります。日本では3人に1人が高齢者となる2035年に向けて、医療体制の改革が行われていますが、2011年の避難所には既に2035年が到来していたといえます。
東日本大震災後の医療支援を経験し、広域激甚災害では「病院で待つ医療ではなく、避難所へ訪ねていく医療が必要である」と痛感しました。
災害発生時、地域の病院が機能していれば、怪我をした方や何らかの病気を発症した方は病院へと集まります。しかし、病院を受診される患者さんとは、ご自身で医療の必要性を自覚した方、あるいは周囲の人が気づいた方に限られます。
私は北海道の出身ですが、2011年の活動を通し、改めて東北の方々の我慢強さや気丈さに驚かされました。たとえば、災害支援チームのスタッフが避難所を巡回し、「お体の調子はどうですか」と聞いて回っても、みなさんはじめは「大丈夫です」と気丈に回答されます。
しかし、よくよく話を聞いていくなかで、「私よりもっと大変な人がいるから」「このくらい大したことないから」と痛みや不調を我慢しながら「大丈夫です」と口にされている方が多々おられることがわかりました。こういった方々は、病院で患者さんを待っているだけの医療ではみつけだすことができなかったと思っています。
また、気仙沼市の体育館には避難所生活を送る方のプライバシーを守るために、テントなどの支援物資が集まりました。しかし、テントを張ることにはメリットも多い反面、医療者が巡回しても外からは何が起こっているのかわからないという問題点もあることが明らかになりました。支援活動を行なう医療者には、異変のある被災者の方を早期にみつけるための積極性や、環境に対する配慮も求められます。
被災地へ支援に赴く際には、支援者の精神的な二次受傷のリスクも念頭に入れて動いていかなければなりません。被災地では、日常とはかけ離れた悲惨な現場を目撃します。また、つらい思いを抱える被災者の方々のお話を聴くことも、支援者の重要な仕事です。そのなかで、支援者自身が被災したような状況に陥り、精神的に落ち込んでしまうことがあります。
山形県の支援チームでも、支援開始直後と数週間後に精神状態調査を行ったところ、開始直後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の徴候がみられるスタッフが数名発生していました。
リハビリテーションを行なうスタッフは、職業柄、日ごろ患者さんが亡くなってしまう現場に立ち会う機会は少ないという特徴があります。そのため、被災地においてはストレスを受けやすい傾向があることが、今回の活動で明らかになりました。医療者が災害支援に入る際には、このような二次受傷にも十分に気をつけなければなりません。
JRAT(Japan Rehabilitation Assistance Team)とは、日本リハ医学会や日本理学療法士協会、日本作業療法士協会など、リハビリテーションに関わる10団体が中心となって、東日本大震災を機に結成した団体です。
発災直後に、これら10団体を中心とした活動の話を聞き、山形県からは山形大学のリハチームのほか、山形済生病院とみゆき会病院の3つの団体が参加し、10団体の先遣隊として組織立って合同調査を行いました。この合同調査の目的は、行政にリハビリテーションの必要性を理解していただくために、エビデンス(科学的根拠)を作ることでした。私たち山形大学を中心とした合同リハ支援チームは、2011年5月中旬から4週間にわたり、気仙沼地区46か所の避難所のうち調査可能な35か所、約4,000人の避難者の方の体調調査を行いました。
この調査により深部静脈血栓症のリスクなどがデータ化され、リハビリテーションの必要性が全国的に認知されていくことに貢献したと、後に気仙沼市の災害対策本部のメンバーから伝えられました。
東日本大震災を契機に結成されたJRATは徐々に大きな組織となり、その後の熊本地震や九州北部豪雨の際には発災直後から避難所に入り、途切れのないリハビリテーション支援を行っています。
阪神・淡路大震災を機に結成されたDMAT(災害派遣医療チーム)の名は、今や多くの方の知るところとなっています。東日本大震災発生時にも、DMATの初動対応の早さやスムーズな応急対応は高く評価されました。
今後はJRATもDMATのように認知度を高め、一次避難所で「JRATです」と名乗ればすぐに「よろしくお願いします」といっていただけるような組織として、さらに発展していくことを願っています。発災直後は判断能力が低下してしまうことも多いため、日頃から一般の方や行政の方に知っていただけるような広報活動を行い、いざというとき、スムーズに避難所に入って活動できるような信頼関係を構築しておくことが重要です。
2016年の熊本地震では、残念ながら肺塞栓症で亡くなってしまわれた例も発生しています。こういったPDD(防ぎえた死)を食い止めるために、災害時には救命救急処置と同じようにリハビリテーションも必要だということを、全国の方に知っていただきたいと願っています。
山形大学 医学部附属病院 副院長
山形大学 医学部附属病院 副院長
日本整形外科学会 整形外科専門医日本リウマチ学会 リウマチ専門医・リウマチ指導医日本リハビリテーション医学会 リハビリテーション科専門医・リハビリテーション科認定臨床医日本手外科学会 会員日本肘関節学会 会員日本小児整形外科学会 会員
災害時の運動器医療を専門とし、2011年の東日本大震災直後には山形県に避難された福島県民の方へのリハビリテーション支援を行った。その後、宮城県気仙沼市で医療支援活動を行い、災害リハビリテーションの有用性を示すための現地調査を実施した。災害時の医療支援活動のノウハウを活かし2015年のネパール大地震の際にも現地に駆けつけるなど、国境を超えた活動も行っている。
高木 理彰 先生の所属医療機関
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