おしどり夫婦の母がスキルス胃がんで亡くなり、落ち込む父を心配して受けた胃の内視鏡検査(胃カメラ)で、がんが見つかる――。そんなドラマのような展開を地で行ったのが、東京郊外に暮らす中山みともさん(44)だ。胃がんの手術を受けて8年。「めげない」気持ちで乗り切り、周囲にがんを隠さないことで人生の幅が広がっている。【日本対がん協会・中村智志】
2018年5月16日、中山みともさんは、東京都江東区のがん研有明病院で、垣添忠生・日本対がん協会会長との交流会に出席していた。垣添会長は「全国縦断 がんサバイバー支援ウォーク」と銘打って、全国がんセンター協議会加盟の32病院を訪れ、がんサバイバーや医療者らの話に耳を傾けていた。真剣な話あり、笑いありの交流会の中盤で、最前列の女性がすっくと立ち上がった。
「中山みともです。8年前に母がスキルス胃がんで亡くなってしまいました。おしどり夫婦だったので父が落ち込んでしまい、私までがんで死んだらまずいと思い、1年後に胃の内視鏡検査を受けたら、胃に4cmのがんが見つかりました。元気になった若い元がん患者が、できることは何でしょうか?」
垣添会長の答えは明確であった。
「ご自分の体験をみなさんに伝えていただきたい。がんが治って元気になった方がたくさんおられます。それが伝われば、がん=死というイメージが変わっていきます」
みともさんは1975年2月10日に生まれた。
父の良一さんは、九州大学卒業後に日本鉱業(現JX金属)に入社。配属された大分県の製錬所で、母の光子さんと出会った。
やがて東京へ転勤となり、みともさんと、4歳下の妹の美紀さんが生まれる。
みともさんは青山学院大学卒業後、宝飾関係の卸商社に就職、外商で実績を上げた。
一家に突然の変化が訪れたのは、2009年の暮れであった。卓球おばさんだった光子さんが、「胃の調子が悪い」と言い始めたのだ。
年が明けて1月半ばごろ、地元のクリニックで「胃炎」と言われ、胃薬を処方されたものの治らない。1カ月後、別の病院で胃カメラで検査してもらうと、「ものすごく荒れています。大きな病院で診てもらったほうがいい」と診断された。
3月上旬に大学病院を受診し、診断結果が下旬に出た。進行したスキルス胃がん。余命3カ月と言われた。父、妹と3人で作戦会議を開き、母には余命の話を伝えないこと、がん研有明病院で治療を受けることを決めた。
同病院を受診すると、診察した山口俊晴先生(現・名誉院長)が、「まずは元気を回復させて、それから抗がん剤治療をやりましょう」と方針を示した。
腹膜播種(ふくまくはしゅ=おなかにがん細胞が散っている状態)があり、リンパ節にも転移していた。母には「抗がん剤で胃をやわらかくして、がんが小さくなったら手術もできるよ」と励ました。
光子さんは一時的に食べられるようになったが、やがて、がんは腹部全体に転移し、肺にも水がたまってきた。
7月末、2泊3日の予定で退院した光子さんは、自宅から多摩川の花火大会を楽しんだ。抗がん剤で匂いに敏感になり、みともさんが作ったジャガイモのスープも1口ぐらいしか飲めない。腹水がたまり、足もむくんだ。
8月に入ると、みともさんも会社を休み、良一さんと交代で病室に寝泊まりした。
そして、8月26日の夕方。妹が帰ってほどなく、呼吸の回数が減ってきた。妹に電話をかけて呼び戻し、再び家族3人がそろう。良一さんが、光子さんに叫んだ。
「愛してるよ」
光子さんが、かすかな声で応えた。
「あ」「い」「し」
それが最後の言葉になった。
それから1年ほど、良一さんは、毎日お風呂から嗚咽(おえつ)が聞こえるぐらい泣いていた。
「もし私に何かあったら、パパは精神的にもたないかもしれない。がん検診を受けておかなくては」
みともさんはそう考えた。実は30歳の手前から、悩むと胃が痛んだ。
光子さんが逝った翌2011年の真夏、伊豆へ遊びに行き、ビーチで友だちとお酒を飲んだ。真夜中、突然、胃が痛くなった。転げ回るような感じだった。
9月初旬、かかりつけの病院で胃カメラの検査を受けた。院長が写真を見せながら、口を開いた。
「あんまり、よろしくないものが見つかったんです」
4cmのがんがあり、周囲に胃潰瘍が5、6個あるという。
「これってけっこう、まずいですよね。切れない段階ですよね?」
「……そうですね、そう見えます」
父に電話して、がん研有明病院への予約を頼んだ。3秒ぐらい、沈黙が流れた。
このとき36歳。「40歳にはなれない」と思った。死がすぐそこにある。そんな気がした。
3日後、父、妹と3人で診察室に入った。山口先生に胃カメラの写真を見せて、これまでの経緯を説明すると、こう言われた。
「私の経験上、このがんは治る。お母さんに命を救われましたね」
改めて調べると、4cmのがんの右下に1cmのがんもあった。ステージ2。スキルスではなかった。
約2週間後の9月27日に手術。胃を、上部3分の1を残して切除した。周囲のリンパ節の郭清(切除)も行った。抗がん剤治療はなかった。
みともさんは術後1年間、食べたもの、体重、体調などをノートに綿密に記録している。「9月28日 術後1日目 水300mL」「10月5日 8日目 全粥 ハーゲンダッツ(半分)」「10月10日 13日目 全粥 朝、パン半分、クリームシチュー、ポテサラ」といった具合だ。
10月28日は、術後、初めての外来。お酒を解禁し、スパークリングワインを2杯半、飲んだら、激しい動悸がしたという。
翌日からは、お酒は焼酎のお湯割りに替えた。食事は、術後半年ぐらいからふつうに戻った。ただ医師の指示に従い塩分を控え、お酒も以前の7割ぐらいに減った。
会社への正式な復帰は11月。がんのことは、社長、口の堅い同僚、一緒に外商事業を成長させた親しい上司にのみ伝えた。
考えるところがあり、翌2012年7月末に退職。翌日から、父の良一さんがかつて起こした宝飾会社に入社したが、2014年3月、今度は会社が解散となった。宝石の製造・加工や卸売を行う「アイ・ケイ」に転職。長年培った営業力を生かしている。
みともさんは、最初に転職してから、職場でもがんを隠さない。そのことで、周囲とがんについて本音で話せるという。腹腔鏡の手術の痕も見せる。
「手術って、そんな小さな傷でできるの? そもそも、ふつうはおなか見せないでしょ!」
と驚かれるが、意に介さない。こう笑った。
「新しいビキニを買った直後に手術をしたんです。悔しかった! 手術痕はビキニなら見える部分ですからね」
手術から6年が経過した2017年9月、主治医に「完治です」と言われた。2年に1回、検診を受ければいいという。
長年の座右の銘は、「めげない、あきらめない」。母のがんをきっかけに始まったさまざまな“ピンチ”も、この気持ちで乗り切ってきた。
「がんになってから、大失敗をしても、何とかなると思えるようになりました。肝が据わってきたのでしょうか。怖いものがなくなった。かっこわるいんじゃないか、という表面的なことも気にならなくなりました」
*この原稿は、日本対がん協会の患者・家族支援事業「がんサバイバー・クラブ」のウェブサイトに2018年8月に掲載された記事を、メディカルノートNews & Journal編集部と筆者が再編集しました。年齢、肩書、医学的状況などは原則として初出記事を踏襲しています。
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