2度のがんを乗り越えた作家・作詩家のなかにし礼さんが、2019年9月、愛媛県松山市で開かれた「がん征圧全国大会(日本対がん協会・愛媛県総合保健協会主催)」で講演しました。がんになったら、「じたばたするな」ではなく、「じたばたしよう」。その先に成長がある。「がんになった後の自分のほうがはるかに好きなんです」と語るなかにしさんの講演を採録します。【構成=日本対がん協会・中村智志】
ついこの間、電話があったんです。
「矢沢です」
「どちらの矢沢さんですか?」
「矢沢永吉」
彼とはこの50年間、目礼をしたぐらいで、何の接点もありません。
「俺来年、70になるんだよ。今度のアルバムが最後になるかもわからない。で、最後の歌はなかにしさんに書いてもらいたいんだよねえ」
と言うのです。「光栄なこと」と受けました。
タイトルは、「いつか、その日が来る日まで…」。70歳のアーチストと80歳の作詩家が、オリコンチャートのナンバーワンを走り続けています。こんなことができるのも、がんで死ななかったからです。
私が初めてがんになったのは、2012年の春です。のどの調子が悪い、声の出が悪いなど、兆候はありました。ある日、心臓の定期検診を受けている病院で、念のため診てもらったら、食道がんが見つかりました。もうびっくりして。「なんで、この私が」とも思いました。
医者は「来週入院して、抗がん剤治療をして、次に手術をしましょう」と言いましたが、私は「ちょっと待ってください。日本で1番か2番の人にやってもらいたいなあ」と。
実は、その先生となんとなく相性が悪かったんですね。患者との接し方なんです。人がしょんぼりしているときに、「さあ、手術」と顔色がよくなっちゃう先生って、私には無理だなと思ったのです。
それで、人脈をたどり、日本で1番というお医者さんと、翌日すぐにアポイントを取りました。
診てもらうと、「どうしても切らざるを得ません」と言います。この先生が紹介してくれたナンバー2の先生も同じ意見です。
ただ、私は心筋梗塞(こうそく)を抱えていて、心臓は健常者の約半分の能力しかありません。手術は12時間ぐらいということで、そんなに心臓が持ちませんし、麻酔にも耐えられません。
家でかみさんと、切らないで治すがんの治療法を探しました。でも、陰謀だと思うぐらい、出てきません。ようやく出合ったのが、陽子線治療でした。
放射線ではあるけれど、がん細胞にのみ力を発揮して、ほかの臓器や細胞にほとんど害を与えないんです。どちらかというとひらめきで生きてきましたから、「これだ!」と決めました。
東京近辺で陽子線治療をやっているのは、千葉県柏市の国立がん研究センター東病院と、ある国立大学でした。インターネットの案内がより親切だった東病院に決めました。
お会いした先生は素晴らしかった。「食道の陽子線治療の症例はまだ少ないです。成功するだろうけど、失敗することもある」とおっしゃるので、「モルモットに使っていただいてけっこうです」と答えました。
陽子線の治療時間は30分です。最初の25分は、コンピューターで調べて陽子線を当てる場所をマーキングします。残り5分で照射。痛くもかゆくもありません。
5月に治療を始めて、30回やりました。そして9月に、「完全寛解(がんが消失している状態)」となりました。
病院を出た瞬間、メキシコの女性画家、フリーダ・カーロが描いた、切ったスイカに「VIVA LA VIDA(人生万歳)」と書いてある絵を思い浮かべました。本当に、生きているのは素晴らしいな、と思ったのです。
今年で70歳になる五木ひろしさんに書いたのが、去年の紅白歌合戦でも歌っていた「VIVA LA VIDA!」です。あれは、がん体験が作った歌なのです。
ところが、3年ほどたった2015年2月、またがんになったんです。
今度のがんは、食道の近くのリンパ節にできていて、気管支にピッタリくっついていました。がん細胞が気管支の被膜を破って気管支に突入すると、穿破(せんぱ)という状態になります。「穿破が起きたら、生きられるのは長くて4、5日です」と言われました。
しかも、前回の治療の関係で、陽子線は使えません。青くなりました。東病院の先生は「一か八か、手術してみましょう」と勧めましたが、断りました。
しかし、1週間後ぐらいに、友人2人と焼き鳥を食べていたら、内科、外科、陽子線治療をやった先生たちからばんばん電話がかかってくるんです。その熱意に感動して、また手術は4時間で済むというので、入院しました。
2月末、いよいよ手術になりました。
当日は、手術の途中で先生が出てきて、「がんがあまりに気管支に密着していて、メスがどうやっても入らない。無理やり入れて取れなかったら、破れてしまう(穿破)かもしれない。どうしましょう」と家族に相談しました。「それなら、生きている状態で返してください」と息子が言いました。
結局、いったん退院して体力を回復したら、再入院して抗がん剤治療を受けることにしました。
抗がん剤は、点滴で1日24時間、5日間入れます。もう、気持ちが悪いなんてものじゃありません。のたうち回るほどです。家に帰って2週間ぐらい栄養をとって体力が回復したら、また入院して受けます。
1回目の抗がん剤で、がんが半分になりました。2回目を受けたら、また半分に。医者も驚くほどです。
3回目でまた半分。ただ、体はボロボロです。だけど、そこで考えたんです。治療ばかりしている自分はおかしい、と。首から上は全く普通で、夢は見るし妄想はするし、きれいな女性が通ればおっと思います。
首から上の活動を止めたら、私自身の人格、精神性を失ってしまう。そう思って、小説を書くことにしたのです。「いつ中断するかわからないけど」と断って、サンデー毎日で「夜の歌」の連載を始めました。
かみさんが見舞いから帰ると同時に、スキップ踏んで机に向かうんです。疲れていますから、1、2時間やったら十分です。
「なんか、ニコニコしながら毎日生活してるわね」とかみさんが言いました。
4回目でまたがんが半分に減って、5回目で全部消えました。ただ、内科の先生は慎重で、「目に見えない大きさのがんが間違いなくあります。それを叩こう」となり、ここまで来ればやれる陽子線治療を10回、受けました。
そして2015年10月、完全寛解しました。
それから4年間、活発に活動しております。
1番大事なことは、がんになったからといって、お医者様任せ、“まな板の鯉”にならないということですね。
自分の人生だから、自分で勉強し、判断し、選択する。そうすれば、自分を再発見し、成長できるのです。私はじたばたして、陽子線に巡り合いました。
また、私には「2人の自分」がいると自覚しました。「精神的な存在」としての自分と、がんを患っている「ボディ(肉体)」としての自分です。そしてこの2人が共に歩む形で、対話を重ねました。自分の中にもう1人の友達を抱えながら生きる。そんな不思議な体験です。
実は、以前の自分より、がんになった後の自分のほうがはるかに好きです。人生が豊かになり、人に優しくなり、命のありがたみもわかるようになりました。
がんとともに生きていること自体が、生きる意味になるんです。私は病気になって、嫌な思いをしたことは何もないです。
まな板の鯉にならずじたばたしよう、と。今日は、「じたばたする」が、みなさまにお贈りする言葉です。
なかにし・れい 1938年、中国黒竜江省生まれ。立教大学仏文科卒。「今日でお別れ」「北酒場」など約4000曲の作品を作り、日本レコード大賞などを受賞。作家としても活躍し、「長崎ぶらぶら節」で直木賞。2度のがん体験を「生きる力」「闘う力」「がんに生きる」にまとめる。
*この原稿は日本対がん協会のウェブサイト内「がんサバイバークラブ」に2019年10月に掲載された記事をメディカルノートNews & Journal編集部と筆者が再編集しました。年齢、肩書、医学的状況などは原則として初出記事を踏襲しています。
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