山口ミルコさんは、幻冬舎の編集者・プロデューサーとして活躍しながら、東京・六本木で暮らしていた。2009年春に43歳で退職した後に、乳がんの治療に入った。千葉県我孫子市の実家と六本木を行き来しながら治療を進めるうちに、だんだん、生き方が変わってゆく。省エネ生活になり、不要なもの、ほんとうに大切なものが見えてきた。今は、「心の平安を大切に生きていきたい」という。【日本対がん協会・中村智志】
「ミルコ」は本名である。
総合商社で旧ソ連からの北洋材輸入に携わっていた父が、ロシア語の「ミール」(平和、世界という意味)から名付けた。
東京で生まれ、小学校時代から千葉県我孫子市で育った。
大学を卒業すると、外資系企業を経て角川書店へ。1994年2月、同社取締役だった見城徹氏が前年11月に設立した幻冬舎へ移り、編集者・プロデューサーとして、五木寛之さんの「大河の一滴」などベストセラーを世に送り出した。
夜中まで働き、有名作家や芸能人など大勢の人と付き合い、六本木のマンションで暮らす。外車に乗り、東京のさまざまな名店で食事をした。
山口さんが異変を知ったのは、2007年ごろ、アロマセラピーを受けているときだった。いつも担当してくれるセラピストが、右胸の上部にしこりがあるのに気付き、受診を勧めてくれた。
都内の総合クリニックで検査したところ、「気にしなくていいです。様子を見ましょう」という診断だった。仕事優先で放っておいた。
やがて、しこりが、ずきん、ずきんと痛くなった。改めて同じクリニックで検査をすると、「もしかして乳がんかも……」と言われた。別の病院で受けた検査でも、乳がんの疑いが濃厚であった。
2009年3月、退社。4月、総合病院で細胞や組織を調べると、はっきり告知された。治療の流れを聞きながら、「絶対に無理だ」と思った。全身が冷たくなって、体の芯だけがそこにいるような感覚になった。
この病院には乳腺科がなく、別の総合病院で改めて検査をやり直した。
結果は、右胸の乳がん。わきのリンパ節にも転移している。進行していることは明らかだった。
「私の何が悪かったのだろう。もしアロマで見つかったときにセカンドオピニオンを受けていれば、状況は違ったかもしれない……」
山口さんは自分を責めた。
我孫子市の実家と六本木の自宅を行き来しながら、治療を受けることにした。
5月に手術を受けてがんを取り除き、周辺のリンパ節も切除する。手術後は、ふくれあがり動かない右手のリハビリに励んだ。趣味のサックスを吹けなくなることを何より恐れていた山口さんにとって、右手の動きは死活問題であった。再発予防のホルモン剤も並行して服用した。
夏には放射線治療に入る。土日を除いて毎日1回、全部で30回。右胸の上部とわきのリンパ節に照射した。痛みはないが、放射線を当てたところは、今なお汗をかかない。
11月からは手術の効果を補うための抗がん剤治療が始まった。1カ月に1回、入院して投与した。それを4クール。
副作用で髪の毛が抜けた。最初に投与してから2週間後、起きたら枕が真っ黒だった。3週間後には、完全に髪がなくなった。
便秘になり、嘔吐(おうと)にも悩まされた。
がん経験を振り返った著書「毛のない生活」に収録されている当時の日記に、心境がつづられている。
《2009年11月7日(土) 抗ガン剤投与から6日、自宅療養1日め
まだ少し気持ちわるいが、食べられる。
赤い薬で殺された細胞たち。そのなかで、いいやつらだけが、起き上がってきてくれる。
耐えるしかない》(一部抜粋、以下同)
《11月9日(月) 抗ガン剤投与からまる1週間、自宅療養3日め
抗ガン剤治療の先輩たちが口をそろえていうのは、排水口に溜(た)まった髪の毛の束を見るのはほんとうに悲しい、ということだった。
黒々と髪のた溜まった排水口を、何度も想像した。
その想像が、いよいよ現実となる》
《11月20日(金) 18日め
服も床も毛だらけである。
この落胆に、少し慣れた。
私はいいことを思いついた。
会社で社長に怒鳴られるよりましなのだった。
あれよりまし。そう思えば乗り切れる》
《3回め抗ガン剤投与決行(2010年1月6日~)
赤い薬、こわい。
すでに2回やったのに、まだ慣れない。
……
これは毎度感じたことだが、抗ガン剤後のからだは、ほんとうに必要なものしか求めてこない。
私のからだはおそらく、抗ガン剤でそうとうリセットされた》
「治療中は、自分をよく観察していました。何が起こるかわからない治療前、特に検査中のときが、いちばん怖かった」
気持ちのコントロールは難しかった。落ち込むときには、とことん落ち込んだ。そうすれば、後は気持ちが上向く。
治療後は、守ってくれる病院も、会社も仕事もなく、社会という荒野に投げ出された感じがした。山口さんは、自ら居場所を見つけていくようにした。それは、バンドでサックスを吹くことであったり、原稿を書いたりすることであった。
この間、山口さんを支えてきたのが、一貫する信念である。
--絶対に希望を捨てない。今後の人生のほうがもっとよくなる。強くなったり、より深く考えるようになれたり、美しくなれたり。がんは、自分にとって大事なプロセスなんだ――。
こうした日々の中で、だんだんと変化が起きてきた。
「がんは、自分の細胞の暴走。何かのお知らせなんだから、生活を見直し、チェンジしようと考えました」
規則正しい生活を送り、毎日の変化をあまり求めない。
あまり人に合わせず、自分を大切にする。
何かをやら「ねば」ならない、という「ねば」から自分を解放する。
禁酒し(外食のときに1、2杯は飲む)、たばこの煙があるところにも近づかない。
シャンプー、リンス、ボディーソープ、歯磨きなどで香りの強い化学製品も遠ざける。
体を締め付ける下着や衣類もやめる。
食生活も変わった。
肉食を控える。魚介類は食べるが、なるべく小さなものを選ぶ。乳製品も控えた。ごはんは玄米を中心にした。
ビタミン剤や健康食品も不要になった。
「大量生産・大量消費は、ほんとうに必要なのか。がんとわかってから、生活全体が省エネになりました。今は、サイズ感が小さいほうが好き。五感の力も増し、特に嗅覚が鋭くなりました」
文章を書き、サックスを吹く。ときに大学で出版について教える。
この1年半は、「バブル ~ボスと彼女のものがたり」と題して、中央公論新社の雑誌「婦人公論」で連載した。社会人になってから幻冬舎を辞めてがん治療を受けるころまで、自らを軸に据えつつ平成の女性の「働き方」を描いている。
山口さんは、がんになったことをどう捉えているのか?
「闘病と回復するまでの日々は、そもそも自分が何だったのかを考えさせられた旅だったと思うんです。自分に起こっていることは、全部大事です。がんは、本来の自分に気づくチャンスだったのかもしれません」
がんになったからこそ、たどり着ける地点が、確かにある。
*この原稿は日本対がん協会のウェブサイト内「がんサバイバー・クラブ」に2018年4月に掲載された記事をメディカルノートNews & Journal編集部と筆者が再編集しました。年齢、肩書、医学的状況などは原則として初出記事を踏襲しています。
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