連載がんと生きる

輝きを離さないで~つちぼとけに刻む大腸がんで旅立った夫への思い~

公開日

2019年12月23日

更新日

2019年12月23日

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2019年12月23日

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横浜市の鈴木潤子さんの夫、裕人(ゆうじん)さんは、2017年12月、ステージ4の大腸がんで旅立った。2人は高校の同級生。潤子さんは、日を追って逆に強くなる喪失感とも向き合いながら、裕人さんの分まで楽しい人生を、と過ごしてきた。いずれ裕人さんに会う日が来たら「おっ、がんばって生きてきたな」とほめられたいという。夫婦の輝きは、失われていない。【日本対がん協会・中村智志】

夫に供える毎朝のコーヒー

鈴木潤子さんは毎朝、裕人さんが好きだったコーヒーをお供えしてから介護の仕事に出かけて、帰宅すると飲む。「コーヒーはあまり好きじゃないけれど」と笑う。

横浜市の梅林だった土地に立つ、小さな一軒家。居間の壁際に置かれた仏壇と低いテーブルには、裕人さんや家族の写真がある。大腸がんとわかる前の顔は、ふっくらとしている。ほっそりとした遺影とは別人のようだ。

テーブルに置かれているのは、裕人さんが好きだったひまわりやガーベラなどの花、アーモンドチョコ、マドレーヌ、創作和菓子、スルメイカ、ガンダムの模型……。仏壇とその隣にある棚には、潤子さんお気に入りのカエルの置物がたくさん座っている。

裕人さんが最後の日々を過ごした部屋でもある。

鈴木さんの自宅にある仏壇と机
鈴木さんの自宅にある仏壇と机。裕人さんが好きだったものが供えられている。

穏やかな日々から緩和ケア病棟へ

裕人さんが大腸がんとわかったのは、2016年の夏。ただ、痛みはあったものの、穏やかに過ごせた。

午前中か、うまくすれば午後3時ごろまで、勤務先の自動車修理工場へ行く。工場長だった。

一方で、3週間おきに抗がん剤治療を受けた。副作用で味覚障害になり、白米は「じゃりじゃりする感じでおいしくない」と嫌がった。魚は白身だけ口に含んだが、やはりおいしくない。そうめん、にゅうめんのような柔らかくて消化がよいものを中心に、チョコレート、プリン、生クリームといった甘いものをよく口にした。自宅では高カロリー輸液の点滴を入れていた。

ストマ(人工肛門)を付けていたが、あまり食べると、腸閉塞(イレウス)のようになってしまう。「イレウスっぽいな」。そう感じると、自ら3日間ぐらい絶食した。

1年ほど過ぎたころ、在宅医療を受けている地元の医師に相談して、市民病院でセカンドオピニオンを受けることにした。予約は2017年10月3日。ところがその前日、便が詰まり気味で、朝から吐いて、市民病院に入院した。

腫瘍外科の医師が病室まで来て、こう告げた。

「いま抗がん剤をやったら、100%亡くなります。お役に立てなくて申し訳ありません」

市民病院では治療を受けられない。だが潤子さんの中では、抗がん剤治療をしない期間に体力が戻れば、再び投与できるのではないか。そんな思いもよぎった。裕人さんも、治す気満々であった。

潤子さんはその日のうちに、緩和ケア病棟への申し込みを勧められた。もっとも、空きがなかった。一方で裕人さんは、痛みも消えて、1人でシャワーも浴びられた。退院して在宅に切り替えるという案も出たころ、再び痛みがひどくなった。そして10月24日に緩和ケア病棟へ入った。

すたすた歩けることもあるし、リハビリにも取り組んだ。「家に帰りたい」。裕人さんにはその思いが強く、病院側と模索もした。

「やっぱり、ウチはいいなあ。ママ帰らないもんね」

11月に入ると、家族旅行の話が持ち上がった。日程は12月7日、8日。7日は結婚記念日だ。

行先は熱海。旅館は裕人さんが探した。もともと「調べる人」の本領を発揮し、「点滴棒を持って車いすで入れる。家族用の露天風呂がある」といった条件を満たした宿を予約した。

目標ができると、体調も良くなる。11月12日には、横浜で潤子さんのブログ友達たちとのオフ会に参加した。20人ほど集まったが、裕人さんがいちばん“戦歴”が浅い。そのこともまた励みになり、帰途、夫婦ともに気分が高揚し、横浜みなとみらいのパブで世界のビールを飲んだ(腸に負担をかけないために最後は胃管から吸い出す)。

モールでは自撮り。「私のほうが顔が大きくなっちゃうなあ」とごねる潤子さんに「じゃあ、隠してやるよ」と、顔の前に裕人さんが、ピースサインをするように指を差し出した。

横浜みなとみらいのモールで自撮り
横浜みなとみらいのモールで自撮り。


裕人さんは11月20日に退院した。

「やっぱり、ウチはいいなあ。ママ帰らないもんね」

この言葉を聞いて、潤子さんはジンと来た。

しかし、体調が良いのは見かけであり、医師からは「腸閉塞が治らないと次の季節はないでしょう」と伝えられていた。12月3日、再び入院。6日の午前3時ごろには、自ら胃管を抜いた。夏ぐらいから徐々に出ていた「せん妄」(軽度の意識混濁を伴い、幻覚や妄想、混乱などが起きる状態)が本格的になってきたらしい。

7日の結婚記念日は緩和ケア病棟の病室で祝うことになった。

小児がんの経験のある長女、大学の推薦入学が決まった長男もそろったほか、潤子さんの友人2人も顔を見せた。潤子さんが、

「乾杯しよう。パパとママの結婚記念日だよね」

と声を上げた。裕人さんは缶ビールを1本、おいしそうに飲んだ。ただ、会話はほとんど成立しなかった。

潤子さんは8日から休職して、病院に泊まり込んだ。

裕人さんはベッドに横になるのを嫌がり、トイレや廊下を盛んに歩いた。潤子さんには「歩くことが、生きるという気持ちの表れじゃないか」と映った。

「パパ、ありがとう」

そして27日。この日は、退院予定日だった。

前日から熱があった。朝8時、「おはよう」と声をかけると、「おはよう」と口だけが動いた。呼吸は荒い。血圧を測定した看護師が、いつもは告げる数値を言わない。不安がよぎった。

介護タクシーに荷物を積んだ直後。呼吸の状態がさらにおかしくなり、退院は中止。個室のベッドを家族で囲んだ。看護師が言った。

「あとはご家族だけで過ごしてください」

1回息をすると、間が空く。家族が「次!」と念じると、また息をする。だんだん、「間」が長くなる。「次!」「次!」……そしてついに、「次」が来なくなった。

「パパの胸に耳を当ててみて」

潤子さんの言葉で、娘が裕人さんにおおいかぶさる。大粒の涙を流しながら首を振った。

息子は泣きながら、「まだ温かいよ」と裕人さんの手を離さなかった。

潤子さんの思いがあふれ出た。

「パパ、ありがとう、愛してるよ」

2017年12月27日、午後0時15分ごろのことであった。

つちぼとけに刻んだ「想」と「裕」

「がんよりも、せん妄のほうがつらかったですね。ずっと主人のままでいてほしかった」

ドラマや映画では、最後に「ありがとう」と言って旅立つ。潤子さんも、何となくそんな場面を思い描いていた。しかし、そういう時はこなかった。2018年の夏、私にこう語った。

「時間がたつにつれて、毎日泣くことはなくなったけれど、喪失感は逆に強くなった気がします。帰ってきて、今日こんなことがあったんだよ、と話す相手がいなくなった。でも、主人の分まで楽しいことをやりたいな、と思っているんです。いずれ主人がいる世界に行ったら、『おっ、がんばって生きてきたな』とほめてもらえるような生き方をしていきたいなあ、と思っています」

水泳、ドライブ、オフ会、旅行……。ただ、楽しいことがあると、裕人さんの不在をかえって強く感じて、反動のように落ち込む。他の夫婦が買い物をしている様子を見るだけでも涙が出そうになる。

潤子さんは2018年10月半ば、カルチャースクールの「つちぼとけ(土仏)」をつくる講座を申し込んだ。

つちぼとけは高さ7、8cmから10cmほど。講師は住職で、背中に般若心経から1文字を入れるよう指導された。潤子さんは迷わず、2体ともに「想」の字を入れた。

ちょっといたずらもした。つちぼとけの内側の、ちょうど「想」の字の裏側あたりに、内緒で別の文字も刻んだのだ。「裕」。

潤子さんがつくったつちぼとけ
潤子さんがつくったつちぼとけ。掌に載せたくなる。


それから1年2カ月。2019年12月7日、28回目の結婚記念日に家族で3回忌の法要を営み、潤子さんは、裕人さんの遺骨を納骨した。「わざと完成を延ばしていた」というお墓には、潤子さん自筆の「楽想」の文字。

裕人さんには「楽しく苦しみのないところで過ごしてほしい」という願いを、家族にとっては「裕人さんを楽しみながら想(おも)い続ける」という気持ちが込められている。

 

*この原稿は日本対がん協会のウェブサイト内「がんサバイバー・クラブ」に2018年11月に掲載された記事をメディカルノートNews & Journal編集部と筆者が再編集しました。年齢、肩書、医学的状況などは原則として初出記事を踏襲しています。

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