1枚のポスターが波紋を呼んだ。厚生労働省が作成した「人生会議」。2019年11月に発表されると、SNS等で「不安をあおる」といった批判が起こり、厚労省は配布を中止した。認定NPO法人「希望の会」の轟浩美さんも、厚労省に意見書を送った。国のがん対策推進協議会の委員も務めた浩美さんが、夫の哲也さんや両親らを看取った経験から思い描く本当の人生会議とは、どのようなものなのか?【日本対がん協会・中村智志】
真夏の空がほんのりと赤く染まり始めていた。
夫とふたりでながめた病室の窓からの光景。轟浩美さんは思わず写真に収めた。「これからは、患者会も私1人で背負っていく」。そんな覚悟が芽生えてきた。
2016年8月8日の早朝、スキルス胃がんだった轟哲也さんが54歳で亡くなった。浩美さん、2人の子ども、哲也さんの母、姉一家の8人で夜を徹して、そばにいることができた。そのことが何よりもうれしかった。
「本当に死んじゃった!」
わかっていた「そのとき」を確認するかのような叫びが、浩美さんの口をついて出た。
本当は自宅で看取るはずだったのに、千葉県柏市の国立がん研究センター東病院の一般病棟で送った。しかし、「家に帰せなかった」という悔いはなかった。むしろ、病院で過ごした3週間弱が、かけがえのない宝物となっていた。
弁理士の哲也さんのスキルス胃がんがわかったのは、2013年12月のことであった。
ステージ4。腹膜播種(ふくまくはしゅ=腹膜に転移していて、がん細胞が種をまいたように広がる)で、抗がん剤で転移が消えれば胃の全摘手術を行う、という治療方針が示された。
轟さん夫妻は、哲也さんの父を肝細胞がんで自宅で看取っている。訪問診療を受けて、最後はセデーション(終末期に薬で患者の意識を低下させて苦痛を感じさせないこと。安楽死とは違う)を行った。
その経験から「最後は自宅で」と決めていた。
酸素吸入器で酸素を補充し、医療用麻薬で痛みを取る。食事ができないので高カロリー輸液で栄養を補給する。毎日、訪問看護師が来て、哲也さんをお風呂に入れてくれる。週に1回は訪問医も来る。浩美さんは勤務先の学校法人も辞めた。
万全の態勢を整えたはずだった。しかし、想定と異なる展開を見せてゆく。
2016年6月ごろから、哲也さんが毎日、「死にたい」と口にするようになった。
「いったいこれは何のための日々なのか? 僕が生きている日々はあなたを苦しめているだけだ」
訪問看護師が来る30分以外は、浩美さんがケアする。大柄な哲也さんをトイレに連れていくだけでも重労働だ。酸素の吸入量を最大に設定しても、哲也さんは苦しむ。
浩美さんは今、振り返る。
「義父のときに在宅で看取れたのは、義母のほか、私たち夫婦や子どももいたからなんです。でも今回は、子どもも仕事で私しかいない。盲点でした」
そんなとき、ベテランの訪問看護師が浩美さんを自宅の外へ呼んで、切り出した。
「このままでは2人とも潰れてしまいます。1泊でもいいから、病院に入りませんか?」
7月19日、緩和ケア外来に通っていた聖路加国際病院で緩和医療の市民講座があり、哲也さんは講演をした。それが終わったら、東病院に行こうと話していた。
ところが、終了後に哲也さんは倒れてしまう。翌日、浩美さんの運転で東病院へ向かい、一般病棟の大部屋に入った。
夫婦の理想とは正反対の場所である。それが、福音をもたらした。
酸素吸入器一つとっても、家庭用とは能力が違う。医療用麻薬の効果も段違いだった。食事のケアもしてくれるし、当然のことながら24時間看護師がいる。
哲也さんは院内を散歩できるようになり、「楽だね」とニコニコしはじめた。
「家にいたいって、結局は家族といたい、ということだったんじゃないか。病院の世話になりながら家族も来る。俺たちにとってはそれがベストだったね」
近くのホテルから通う浩美さんも、同じ思いを抱いていた。
週末には子どもたちも来て、家族はよく語り合った。
哲也さんは子どもたちが小さいころ、よくキャンプに連れていった。
「さっきまで生きていた魚を目の前で料理して食べることで、人間は命を食べて生きているんだってことを体験させたかったんだ。どんなに『食べ物を大事にしろ』と言っても、実際に経験してみないとわからないだろ」
こんなメッセージも伝えた。
「自分の人生は自分で決めること。たとえ1人になっても、これをやりたいと心から思えることがあったら、やりなさい」
浩美さんは興味深く耳を傾け、子どもたちはときにケラケラ笑う。暗さはない。哲也さんは浩美さんには、「本当に困ったときに助けてあげる以外は、子どもの人生にはもう口を出さないで」と託した。
8月7日朝。病室に入った浩美さんは、愕然とする。哲也さんは、意識はあるが、ほとんどしゃべれない。
セデーションをかけると決めたのは、哲也さんだった。家族に別れの言葉をかけると、
「みんな、わかってるよね。今だから」
と必死の声で念を押し、自ら主治医に告げた。
哲也さんは薬で眠っていった。それからは、呼吸が止まるのを全員が見守るという不思議な時間が流れた。
それから3年3カ月ほどたった2019年11月25日。
浩美さんは、「人生会議」のポスターを見て驚いた。吉本興業のお笑い芸人が鼻に酸素供給のチューブを入れた状態でベッドに寝ている。
浩美さんが気になったのは、「命の危機が迫った時、想いは正しく伝わらない」というキャッチコピーと、添えられた文章だった。
人生会議とは、「人生の最終段階にどんな医療・ケアを望むかについて、前もって話し合っておこう」という厚生労働省の取り組みで、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」の愛称だ。
浩美さんも、重要性は熟知していたし、国のがん対策推進協議会でも委員として意見を述べてきた。それだけに、このままポスターが各地で掲示されることに危機感を覚えた。
浩美さんは厚労省に意見書をファクスで送った。「ACPの本来の意味への誤解、患者家族への不安、遺族の心を傷つける可能性」を感じていると記したうえで、一度決めた方法の変更を拒んでしまう恐れがあること、スキルス胃がんの患者会「希望の会」には、病院で看取ったことを「世間から理解されず、今も自分を責め続けている」遺族が少なくないこと、「医療者の伴走」も大切なことなどに触れた。
厚労省は翌日、ポスターの発送を取りやめた。浩美さんのコメントも各メディアで伝えられた。すると、抗議が多数、届いたという。
「寛容になれ、とか、被害者意識を持つな、などとありました。意見書を送った別の方も、批判にさらされていました」
だが、厚労省からは意見を直接求められるなど、対立しているわけではない。それどころか、2020年4月から、人生会議の「国民向け普及啓発事業評価委員会」の委員となった。
「正解はそれぞれ違います。死に方ではなく、結局は生き方を考えることです」
浩美さんの脳裏には、哲也さんの告知の翌月に母のトミ子さんを火事で亡くしたときの光景が刻まれている。
病院に駆けつけると、いきなり、「生命維持装置を付けるかどうか、10分以内に決めてください」と迫られた。浩美さんは断り、その後は心電計を凝視した。波形が真っ平らになる瞬間を見るだけのために。「止まりました!」と大声を出したら、医療者が何人か来た。「ご愁傷様です」。
義父を家で看取ったときも、呼吸が止まる瞬間を逃さないようにひたすら見つめ続けた。
父を大動脈瘤(どうみゃくりゅう)で亡くした際には、父の妹の到着を待って、生命維持装置が外された。
いずれの看取りも、何かが違う。「どこで亡くなったか、呼吸が止まる瞬間を見届けたかどうかが大切なのではない。それまで一緒に過ごした時間が大事なのだと思います」
本当の人生会議って何だろう? それを考えるヒントが、ここにはある。
*この原稿は日本対がん協会のウェブサイト内「がんサバイバー・クラブ」に2020年1月に掲載された記事をメディカルノートNews & Journal編集部と筆者が再編集しました。年齢、肩書、医学的状況などは原則として初出記事を踏襲しています。
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