スキルス胃がんは、胃がんの約10%を占める。進行が速く、早期発見も治癒も難しい。弁理士の轟哲也さんは、2013年12月にスキルス胃がんが発覚。その後、NPO法人「希望の会」(現在は認定NPO法人)を設立して理事長に就任し、2016年8月に他界するまで、妻の浩美さんとともに活動を続けた。浩美さんは今も患者や家族を支え、正しい情報の周知に力を入れている。【日本対がん協会・中村智志】
1冊の冊子がある。
「もしかしたらスキルス胃がん -治療開始前に知りたかったこと-」
「希望の会」が作成して、ホームページからもダウンロードできる。専門用語の解説も交えながら書かれていて、わかりやすい。
診察時の心がまえから、「体重が急に減る」「胃が動かない」などスキルス胃がんを疑うべきサイン、スキルス胃がんの特徴、転移の現れ方、治療、緩和ケア、臨床試験の参加方法、セカンドオピニオンの取り方、情報の探し方――まで、幅広い。
医療に関する部分は、轟哲也さんが執筆し、それ以外の部分は浩美さんが担当した。浩美さんはこう語る。
「胃炎と診断されてピロリ菌を除去したのに、胃に違和感が残る。内視鏡検査をしても何も映らない。スキルス胃がんは医師でも気付きにくい。ようやく見つかったときには、ステージ4というケースが多いのです」
哲也さんも、その1人であった。
2013年1月のある朝、哲也さんは唐突に切り出した。
「今日、胃カメラの検査を受けに行くんだ」
驚く浩美さんに、事情を説明した。区の検診で要再検査となったこと。満腹になる量が以前より減ってきているという自覚症状があること。
哲也さんはクリニックで検査を受けた後、仕事から帰ってきた浩美さんにホッとしたように言った。
「がんではなかったよ。胃炎だと言われた」
そして、胃がんの原因にもなるピロリ菌を除去することになった。除去には数カ月を要した。その間にも、胃は悪化した。食後にみぞおちのあたりが痛む。少し食べると、のどがつっかえる感じがする。そうした症状をクリニックの医師に伝えても、
「ピロリ菌の除去をすると、逆流性食道炎のような症状になることがあります」
という答えが返ってきた。地元の胃腸クリニックでも、検査はせずに「胃炎ですよ」と言われた。
2013年11月、1年ぶりに検診を受けた。バリウムを飲んだ瞬間、胃が破裂しそうになった。
2週間ほどたったころ、家の電話が鳴った。都立広尾病院の医師からだった。
「胃のX線画像に病変が見られます。一刻も早く精密検査を受けたほうがいい」
4日後に広尾病院で胃の内視鏡、CTスキャン、病理検査などを受けた。結果を聞きに行く日、哲也さんは浩美さんに言った。
「今日は胃がんだって言われてくるよ」
浩美さんは「胃がんは切れば治る時代」と考えていて、いつも通りに出勤した。しかし、哲也さんからの連絡は違った。
「やっぱりがんだった。それも、スキルス胃がん。『命は数カ月ぐらいと考えてください』って言われた」
このときの浩美さんには、スキルス胃がんの知識はなかった。
哲也さんは告知の1週間後に入院した。腹腔鏡(ふくくうきょう)手術で調べると、腹膜播種(ふくまくはしゅ=腹膜への転移。がん細胞が種をまいたように広がる)がみられた。ステージ4。
抗がん剤治療が始まった。数日後、食べ物が抵抗なく胃に入っていくようになった。希望が見えた。治療を受けながら、哲也さんは身辺整理にも力を入れたという。
一方の浩美さんは、ネットであれこれと検索し、いわゆる民間療法に引き込まれた。サプリメントを買い、にんじんジュースを低速のジューサーでつくる。哲也さんは、それで治るとは考えていなかったが、浩美さんの気持ちを酌んだ。
哲也さんは理科系。何でもよく調べ、テレビを買うにもすべてのカタログを比較検討するようなタイプだった。
2014年の春、臨床試験のことを調べていた哲也さんは、「腹腔内投与」を知る。薬剤を確実に静脈内に投与するための「ポート」をおなかに埋め込み、直接抗がん剤を入れることで、腹膜播種を消すという方法だ。
腹膜播種が消えれば、胃を全摘できる。しかし、この臨床試験を行っている東大病院に連絡を取ると、「抗がん剤治療を1度も受けたことがない」という条件が付いていた。広尾病院では、この療法は実施していない。
「かかる病院によって治療の選択肢が違う」
浩美さんは不公平を突き付けられた気がした。
スキルス胃がんは、情報が少ない。哲也さんは2014年4月、情報を集めたい気持ちもあって、ブログを始めた。
やがてブログ上で呼びかけて、2014年10月、患者会「希望の会」を結成。翌年3月にNPO法人化された。理事長は哲也さん、副理事長は浩美さんである。
2015年5月、発足したばかりの「全国がん患者団体連合会」にも参加した。人脈も広がり、7月には国立がん研究センター(国がん)理事長の堀田知光さんと対談した。
哲也さんは、企画中だった冊子の内容チェックなどの協力を依頼した。堀田先生は「国がんと一緒につくりましょう。内容を、国がんのがん情報のサイトでも見られるようにしましょう」と賛同してくれたという。
2016年1月下旬、冊子「もしかしたらスキルス胃がん」が完成した。
そのころから、哲也さんの体調は芳しくなくなってきた。ほとんど食べられず、食べても吐いてしまう。呼吸困難になったり、転移した骨が痛んだりする。好きだったバイクも手放した。
2015年には金沢市で「腹腔内投与」の臨床試験も受けたが、骨転移が判明して、胃の全摘手術に入れなかった。東京に戻り、保険適用されたばかりの分子標的薬などで治療を続けた。
そして、千葉県柏市の国立がん研究センター東病院で、免疫チェックポイント阻害剤の「日本人で初めて」という臨床試験に賭けた。
3月半ばに始めた臨床試験は、5月末に中止。その後は既存の抗がん剤の併用療法を再開した。
8月8日の早朝。哲也さんは旅立った。最後の言葉は亡き母への「産んでくれてありがとう。あなたの子どもで幸せでした」だったという。その前日には、浩美さんに「出会えてよかった」と感謝を伝えていた。
浩美さんはこの日、ブログにこうつづった。
《早朝、旅立ちました。
最期までスキルス胃がんの希望のために生きました。
私は彼の意志を継いでいくつもりです》(抜粋)
浩美さんは言う。
「亡くなってから時がたつほうがつらいですね。立ち止まる時間ができて、本当にいないんだな、と感じます。後になるほど悲しくなることもあるんです」
2018年1月末のブログではこう書いた。
《夫が遺した言葉
「自分がいなくなった後、家内には、支えてくれる友人たちが周りにあふれるほどいてほしい。息子や娘には、それぞれが家庭を持ち、親のことよりも自分たちの家庭の幸せのために一所懸命に毎日を送ってほしい。それが去りゆく者の願いです」
これが、どんなに愛されているということだったのか、今更ながら深く感じています。》
浩美さんは、哲也さんの後を継ぐように「希望の会」理事長に就任した。2019年4月には、「希望の会」の中に遺族会をつくった。遺族になると、患者会への参加をためらう人も少なくないからだ。7月には「大切な人を思う会」を開いた。
浩美さんの信念は、若いころから「あきらめない」。その思いが、スキルス胃がん、ひいてはがんに立ち向かう人たちに一筋の光を照らしている。
*この原稿は、日本対がん協会の患者・家族支援事業「がんサバイバー・クラブ」のウェブサイトに2018年1月に掲載された記事を、メディカルノートNews & Journal編集部と筆者が再編集しました。年齢、肩書、医学的状況などは原則として初出記事を踏襲しています。
取材依頼は、お問い合わせフォームからお願いします。