近年、企業が従業員の健康管理を経営的な視点から考え、健康保持・増進のための取り組みを戦略的に実践することを意味する「健康経営」に注目が集まっています。健康経営は従業員のモチベーションや生産性の向上に直結する新しい概念で、取り入れることにより組織全体の活性化や業績の向上などが期待されます。昨今は企業や法人等で健康経営に関するさまざまな取り組みが進められています。
メディカルノートでは、2017年11月17日(金)アットビジネスセンター東京駅にて、地方議会議員の方々を対象に第三回医療政策セミナーを開催しました。今回は講師として、有名企業の産業医としてご活躍されている三宅琢(みやけ・たく)先生をお招きし、『健康経営』をテーマにお話しいただきました。
三宅先生は、産業医の仕事をメインとしながら、株式会社Studio Gift Handsの代表も務められるなど幅広い分野でご活躍されている先生です。医療、産業保健、介護福祉、教育などさまざまなフィールドでの活動を通して、現場が抱えている課題やそれが改善されていく経過を目の当たりにしてこられたそうです。多岐にわたる分野の課題に取り組まれてきたご経験から、現場の課題を政策に反映させるポイントや、地域や国の政策に関わるべき産業医の展望など、議員の方々に向けてご解説くださいました。
本記事では、セミナーの内容を一部抜粋してレポートします。
今回の講演のテーマ「健康経営」とは、経営的な視点から従業員の健康管理に取り組む概念です。近年、日本では労働者の健康に対する世の中の意識が高まっており、さまざまな企業が健康経営に取り組んでいます。ここでは健康経営に関連する最近の傾向についてお話しします。
労働者の健康づくりが推進されている近年、企業では従業員の健康管理として法律に基づいた健康政策*が行われています。健康政策としては、産業医や保健師が中心となって各従業員への保健指導などが実施されています。
一方、労働者の健康に関するさまざまな問題がみられるようになったことを背景に、多くの企業で「健康経営」の概念が取り入れられるようになりました。
健康経営とは、従業員の健康増進を目的とした取り組みが、将来的に組織の活性化や業績向上等に繋がるという考えのもと、経営面から従業員の健康を扱おうとする考え方のことです。企業のなかの誰かが健康管理を担当するのではなく、企業の代表である社長が号令を発し、組合や労働者全員を巻き込んで実施します。健康経営では社員のニーズに合わせて多様な取り組みを実施してよいと考えられています。
健康経営が健康政策と大きく異なるのは、実施した政策を評価する点です。法律に基づいて実施するだけではなく、実施したうえで評価し、今後も政策を続けるかどうか決定します。そこで、健康経営を実施するためには、評価して改善する「PDCAサイクル(Plan Do Check Act)」という手法を取り入れることが重要となります。
法律に基づいた健康政策……1988年「労働安全衛生法」改正。同法に基づき「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」が策定(平成26年版厚生労働白書より)
健康経営が実施されるようになった背景には、主に労働者の過労死・過労自殺の問題があります。
日本で平成26年11月に制定された「過労死等防止対策推進法」において、過労死等が起こった際には労働基準監督署(労基署)*も実質的な責任を負うとの文書が初めて提示されました。これにより労基署は過重労働を課題としてより重くとらえるようになり、世の中に大きな変化がもたらされました。また、メディアでの報道なども労働者の健康に対する意識を高めました。
労働基準監督署……労働に関する相談を受ける機関。労基署。
過労死は、過重労働が原因となり、脳や心臓の血管が詰まったり破れたりして引き起こされる死亡のことです。月80時間以上の残業が過労死のリスクになるといわれています。この基準は、残業が月100時間を越えると5時間以上の睡眠が確保されにくく、血圧が上昇しやすくなり死亡のリスクが高まるという考え方によるもので、必ずしも全ての人には当てはまりません。
過労自殺は、職場の人間関係などが原因で自死することです。実は過労死よりも過労自殺や精神障害に関わる労災件数のほうが増加傾向にあり、この事実を踏まえてストレスチェックなどの政策が実施されています。しかし、多くの企業が取り組んでいる長時間労働の軽減は過労自殺の抑制には効果が薄く、本当の課題との間にギャップがあるのではないでしょうか。
近年では、従業員の健康に投資することで業績や価値の向上が見込まれることから、多くの企業が経営の面から従業員の健康推進に取り組むようになりました。
また、日本では健康経営に取り組む大企業の一部が「健康経営銘柄」として選定され、健康に対する意識の高さを評価されています。健康経営銘柄に選定されれば企業価値向上につながり、求職者に注目されやすくなるため、リクルートの費用削減に活用できます。
健康経営で重視されるのは、社長が号令を発するということです。経営として従業員の健康を扱い、社長発信で労働者全員を巻き込むことで、社員のモチベーションが上がり組織全体の生産性の向上に繋がると考えられます。
次に、健康経営を実行するための具体的な方法について考えていきます。
健康経営は、企業と地域それぞれの環境改善に活用することができます。ここでは企業の健康経営についてお話しします。
健康経営を実行するにあたって企業が目指すべき従業員の「健康」とはどういうことでしょうか。それは「元気と病気の調和」と定義できるのではないでしょうか。
病気を抱えている人が必ずしも不健康というわけではありません。健康とは、病気があっても元気な状態、すなわち元気と病気のバランスが取れている状態のことであると考えられます。労働者の場合、何らかの病気に罹患していたとしても問題なく元気に出勤できていれば健康といえるでしょう。
このことから、健康経営の課題は従業員が抱える病気を全て取り除くことではなく、元気と病気のバランスが取れるように導くことであると考えられます。
それでは、「アブセンティーズム」「プレゼンティーズム」という2つの重要な概念に着目し、健康経営の具体的な取り組みについて考えていきましょう。
健康経営への関心が高まる今、アブセンティーズム・プレゼンティーズムという労働損失をいかに抑えるかが企業の課題といえます。
企業における「アブセンティーズム(absenteeism)」とは、病気による欠勤や休職、遅刻早退などで、従業員が職場での業務に就けない状態を指します。
「プレゼンティーズム(presenteeism)」とは、従業員は職場に出勤してはいるものの、本来発揮されるべき能力が身体的・心理的な問題によって妨げられ、パフォーマンスが低下している状態を指します。
この2つのうち、より問題視されるのはプレゼンティーズムです。企業における健康関連総コストのうち、アブセンティーズム(病気で欠勤している人)よりもプレゼンティーズム(体調不良の人)の労働損失コストのほうが大きいことが明らかになっています。
企業のアブセンティーズムを減らすためには、休職中の方が会社に復帰しづらい環境を改善する必要があります。今回は、私が「社会的うつ」「制度的うつ」と呼んでいるケースを例に挙げて説明します。
産業保健の現場では、職場の人間関係などによるストレスが原因で会社に出勤できない状態の方が多くみられます。私はこの状態を、一般的なうつ病と区別して「社会的うつ」と呼んでいます。
「社会的うつ」を引き起こす原因として考えられるのは、主に適応障害です。適応障害は生活環境の変化に伴って緊張状態が起こる反応のことで、軽い疲れや気分の落ち込みなどの症状が現れます。誰にでも起こり得る体の反応ですが、緊張状態が長く続くと突然涙が止まらなくなったり、出社前に足が震えて立てなくなったりするなど、症状が強く現れて出勤に支障が出ることがあります。
休職して症状が治まれば復帰を考えますが、「社会的うつ」で休職している方の場合、復帰しづらくなってしまう方が多くみられます。原因として疑われるのは生活リズムの乱れです。たとえば、休職中は昼過ぎまで寝ている日が多かったり外出が減ったりしていて、社会人としての規則正しい生活リズムに急に戻すことが難しくなるためです。
そこで産業医は、休職中の方に日々の生活記録をつけてもらって状況を可視化し、努力が必要な点を明確にすることが重要です。「7時に起きて図書館に行く」などの過ごし方を提案し、働いている状態の生活リズムに近づけていけば、出勤できる状態に導くことができます。
「社会的うつ」以外に、休職中の方が復帰しづらくなる理由として、会社の制度が厳しいということが挙げられます。会社が定める勤務時間通りに働くのは厳しいと感じて会社に戻りにくくなっているケースを、私は「制度的うつ」と呼んでいます。
メンタルの性質上、休職から復帰してしばらくは調子が出にくいものです。そこで企業は、復帰後の軽減勤務を許可するなど制度を緩和し、会社に戻りやすい環境をつくる必要があるでしょう。この対策を講じることで、休職者が復帰しやすくなるだけでなく、繰り返し休職してしまうような状況も防ぐことができると考えられます。
企業のプレゼンティーズム(会社には来ているがパフォーマンスが低下している状態)を減らすには、ネガティブな感覚とポジティブな感覚とのバランスを取ることが効果的です。対策の一例として、今回は不平等感・所属感・お得感という3つのキーワードに注目して説明します。
「不平等感」とは、社員同士で不公平や不平等を感じることです。不平等感が募ると、従業員のメンタル不調が引き起こされたり、業務のパフォーマンスが低下したりする場合があります。
不平等感のようにネガティブな感情を減らしていくことはなかなか難しいものですが、後述する「所属感」「お得感」といった別のポジティブな感情を増やすことで、感情のバランスが全体的に整い、従業員の不調を改善できる場合があります。
所属感とは、組織に所属している実感のことで、会社が自分のことを見てくれているというポジティブな感覚です。お得感とは、就労に対して期待以上の満足感が得られることです。所属感・お得感を向上させて就労の満足度を高めることで、不平等感のようなネガティブな感覚とのバランスが取れると考えられます。
たとえば在宅勤務(テレワーク)は、他の従業員に会う機会が少ないことや、データ上の数値で評価されることなどから、会社に所属している感覚が薄くメンタル不調が現れやすい勤務形態だといわれています。
そこで、私がテレワークの方向けに実施した対策が2つあります。1つは勤務中にできるストレッチ方法を考案したことで、働きながらストレッチできるという在宅勤務ならではのお得感を伝えました。もう1つはチャットを利用した健康相談の実施で、会社が見てくれているという所属感を伝えました。この2つを実施したことで、実際にメンタル不調者が減少しました。
次に、日本で実施されている政策を企業の環境改善に活かす方法を考えていきます。
従業員の健康づくりに関する政策の1つとして、日本では「ストレスチェック」制度が実施されています。ストレスチェックは、自分自身のストレスを把握してメンタル不調を防止することを目的とした検査です。実施する意味があまりないと考える方もいますが、重要なのは問題点を挙げることではなく、活かす方法を見つけることではないでしょうか。実はストレスチェックは、自分のストレスに気がつく機会になるだけでなく、検査結果を組織分析に利用できるという特徴があるため、企業の環境改善に活かすことが可能です。
政策を環境改善に活かすためには、「ブライトスポット(見本となる成功例)」という概念に注目することが重要です。
ブライトスポットは、沼地の中で唯一乾いている空間を指す言葉です。企業の環境改善においては、結果が悪い店舗に注目して指導などをするよりも、結果が良い店舗(ブライトスポット)に注目し、その店舗が実施している優れた取り組みを他の店舗に広めたほうが効果的であるという考え方です。
今回の例では、ストレスチェックを実施した企業のなかで、ストレス値が低い(結果が良い)店舗をブライトスポットと考えます。企業は、ブライトスポットである店舗にヒアリングを行い、その店舗が実施している優れた取り組みを他店舗に広めるとよいでしょう。他店舗が成功例を真似ることで、同じようにストレス値が下がることが期待されます。それによってメンタル不調者が減少したり、辞職者が出にくくなってリクルート費用が削減されたりし、企業の経営にとってプラスになると考えられます。
健康経営は地域の環境改善にも活用することができます。アブセンティーズム・プレゼンティーズムに着目し、地域の健康経営についてお話します。
地域のアブセンティーズムは、家から出られない老人や障害者、不登校の子どもなど、本来活躍できるはずなのに活躍できていない人を指します。
地域のアブセンティーズムの減少を目指して実施されている取り組みの中でも、現在(2017年11月時点)、特に私が注目している優れた3つの取り組みをご紹介します。
元気な高齢者に呼び掛けて就労を依頼できるアプリです。ジーバーを利用すると、地域の就労可能な高齢者がピックアップされます。仕事の内容・時間・場所を設定すれば、依頼を受けた方が指定の場所で就労できる仕組みです。時間を持て余している高齢者の方を地域と繋ぐ画期的なアプリです。
視覚障害者とボランティアを遠隔で繋ぐアプリです。目の見える方がアプリを利用する場合は、見えなくて困っている方とテレビ電話がつながり、相手が見てほしいものを代わりに見て伝えることができます。助けを必要とする方のために個人の機能が役立てられるという、機能代行の考え方の第一歩です。
能力に偏りがある子ども向けの教育機関です。一般的な教育機関に馴染めない子どもたちのサポートとして、得意な能力を伸ばしたり生活力を高めたりするプログラムを行います。体験を重視した新しい教育方法を取り入れており、従来の学校の枠に囚われない教育モデルとして注目されています。
地域のプレゼンティーズムを減少させるために医師として協力しているプロジェクトがあります。静岡県の港町に住む子どもたちへの「出張出前授業」です。
静岡県の東側では、漁師の生活リズムや食生活などが原因で、メタボリックシンドロームや高脂血症が多くみられます。そこで子どもを通して親の生活習慣を改善させる新しい取り組みを始めました。
授業では子どもたちにメタボリックシンドロームのメカニズムを説明し、最後に音楽に合わせて「自分なり体操」をします。自分の好きな動き2個と決められた動き6個を好きな順番に組み合わせる体操で、すべての子どもが実施できる内容です。子供たちは帰宅後、親と一緒に体操を2週間続けます。親の生活習慣が改善されることを目指しています。
ストレスチェックの義務付けや、健康経営銘柄の登場などからわかるように、日本ではこれまでになかった軸で世の中の健康に対する意識が高まっています。そこで今後は健康の専門家として産業医の活用が見込まれます。しかし、産業医の多くはこうした世の中の流れにまだ追いつけていないのではないでしょうか。
産業医は社会のニーズによって成長します。地方議員の方々には、議員を対象とした環境調整のオファーなどを出すことで地域の産業医を育てて頂ければと思います。