得意なことをみつけるためにチャレンジする

「得意なことをみつけるためにチャレンジする」

臨床に役立つ免疫の研究を続ける熊ノ郷淳先生のストーリー

大阪大学大学院医学系研究科 呼吸器・免疫内科学 教授

熊ノ郷 淳 先生

医師を目指すきっかけとなった父の死

私が医師を目指すきっかけとなったのは、父の死です。私が中学3年生のとき、父に脳腫瘍がみつかりました。そして、父は脳腫瘍の発見からわずか1年あまりで亡くなってしまったのです。当時の私は闘病する父の姿をみて、「なぜ脳に腫瘍ができるのだろうか」「父を助けることはできないのだろうか」と疑問を感じ、病気の発症について詳しく知り、患者さんを治療したいと思うようになったのです。

そこで大学で医学について学び、医師としていずれ父の苦しんだ脳腫瘍などを治療する脳外科医になろうと考えました。

闘病中、父は阪大の医学部附属病院に入院していました。病院の看護師さんたちは当時中学生だった私にも非常によくしてくださいました。私が看護師さんたちに「医師になりたい」という思いを伝えると、看護師さんたちは「がんばって医学部に入学し、また阪大病院に戻っておいでね」と優しく声を掛けてくれる方々ばかりでした。

そこで私は「脳外科医になって阪大病院で働こう!」と決意し、父の病室で受験勉強に励みます。

靴ひもを結ぶのが下手で外科医を諦め、免疫内科学の道へ

そして、私は晴れて大阪大学医学部に入学することができました。しかし、入学後まもなく長年志してきた脳外科医になることを諦めることになります。なぜなら、自分が不器用なことを自覚したからです。

私が自分を不器用だと自覚したのは、なんと紐靴を結ぶのが下手だったことからでした。今でも教授回診のときに、靴紐を1回は必ず結び直さなくてはならないほどに、ひもを結ぶことが下手なのです。そんな不器用な人間が、細かな作業が必要となる脳外科医になるのは難しいと感じ、脳外科医の道を諦めてしまったのです。

新聞の一面が免疫学との出会い

脳外科医になることを諦めると、私は勉強や医師になるということに対するモチベーションをすっかり失ってしまいました。そんななか、転機となったのが免疫研究との出会いです。私と免疫学との出会いは、新聞の一面でのちの恩師となる岸本忠三(きしもとただみつ)先生がIL‐6を発見したという記事をみつけたことです。

IL‐6を阻害する薬は、2018年現在関節リウマチなどの病気に対して使用されています。IL-6を発見したという記事をみたとき、私は漠然と「なにかすごいことが起きているな」と思っていました。また、私はこの記事をみて初めて大阪大学では免疫研究が盛んに行われていることを知りました。

脳外科への道を諦めたばかりの私は、この新聞をみたことをきっかけに大阪大学では免疫研究が盛んなことを知り、免疫学に興味を持ち始めました。丁度その頃、利根川進(とねがわすすむ)先生、本庶佑(ほんじょたすく)先生、そして恩師の岸本先生をはじめとした、免疫学の著名な先生方の特別講義が開講されていたため、私は喜んで参加しました。

私はこの講義を受けて、今まであまり意識したことのなかった医師の「研究」という側面について学び、医師になって患者さんの治療をしたい気持ちのほかに研究をしたい気持ちが生まれました。

診療をする医師になるべきか、研究をする医師になるべきか

興味を持てる分野をみつけ勉学に励んだ私ですが、自分の進路については卒業間近の6回生までとても悩みました。

医師には「治療」と「研究」という大きく分けて2つの役割があります。私は入学当初、患者さんを治療するために医師になりたいと思っていました。しかし、大学で免疫学と出会い、研究にも俄然興味を抱くようになりました。それは、利根川先生や岸本先生、PD-1の発見をした本庶先生や、インターフェロン遺伝子の同定をした谷口維紹(たにぐちただつぐ)先生などの講義を受けて、免疫の研究をすることにあこがれを抱いていたからです。

もし、自分が研究の道を選んだら、大学院への入学が必要です。しかし、「脳外科医になる目的で大阪大学医学部に入学したのに、本当に研究の道に進んでいいのだろうか」「裕福ではないのに医学部へ通わせてくれた母のために、働かなければ」と迷う気持ちもありました。

憧れの教授のもとへ

そんなときにIL-6を発見し、私が免疫研究に興味を持つきっかけとなった岸本先生が大阪大学細胞工学センター教授から第三内科(現呼吸器・免疫内科学)の教授に就任するというニュースが飛び込んできました。私は「岸本先生のもとでぜひ学びたい!」と思い、岸本先生が内科教授で戻られたことで、迷うことなく岸本先生のもとで研究の道を歩むことに決めました。

大阪大学医学部を卒業した私は、直ちに第三内科教室に入局しました。そして関連病院で研修を終えた後、念願の大学院に入学しました。

しかし、大学院での研究は思うような成果が残すことができず不完全燃焼に終わってしまい、卒業後ももう少し研究を続けたい気持ちが残りました。そこで、大学院卒業後に臨床の場に戻ることを断って、研究に再チャレンジできる大阪大学微生物病研究所へ移ることを決めました 。

恩師の言葉があったからここまでこれた

実は、大阪大学微生物病研究所に行くことを恩師である岸本先生に相談せずに決めていました。岸本先生に、大阪大学微生物病研究所に行くことを話すと1時間半ほどお説教をされました 。

先生に相談してから2週間ほどたったある日、岸本先生から連絡がありました。先生はコロラドで開催されるキーストンシンポジウムに参加されることになったとおっしゃいました。そして先生に「コロラドに行くことになったけど、コロラドは寒いし、雪が降るから不整脈が心配。ついてきて」といわれ、私は岸本先生の助手として一緒にコロラドに行くことになったのです。

私は、岸本先生からきついお説教をもらっていたので、そのときは岸本先生の真意がわかりませんでした。しかし、デンバーの空港からホテルまでのタクシーのなかで「微生物病研究所に行くのだから、しっかり頑張りなさい」という一言をかけてくれたとき、岸本先生は、自分の教室を飛び出していく私を激励するために、コロラドへの同行をお願いしてくれたのだと感じました。

病気の仕組みを知りたい気持ちが原動力に

私は、父の病気をきっかけに医師を目指しました。しかし、自分が不器用なことを自覚して、もともとの目標であった脳外科医をあきらめました。

大阪大学微生物病研究所では病気にかかわる研究をしていましたが、その根底には私のなかにある「病気の仕組みが知りたい」という気持ちがあったからです。もちろんそれは父の死がきっかけだったかもしれませんが、今思えばもともと好奇心が強いのだと思います。

岸本先生にかけてもらった言葉の通り、大阪大学微生物病研究所で研究を続けていき、2006年に大阪大学微生物病研究所の教授に昇進し、2011年に出身教室である呼吸器・免疫内科学講座(旧第三内科)教授に就任しました。

キャリアは違うかもしれない─しかし研究は診療に役立つ

私は大学卒業後、関連病院で研修し大学院を出てからは研究の道に進みました。私はもともと患者さんを治療する医師になりたいと思い、医師を志しました。そのため、当初自分が思い描いていた医師像とは大きくかけ離れたキャリアを歩んできたといえます。

しかし、私が研究生活の中で体験したこと、学んだことや見つけたことが、何らかの形で診療の現場で患者さんの診断・治療に繋がっていることを見ると、研究をやっていてよかったと思います。

研究を主眼に置く医師は診療を行っているいる医師とは違い、直接患者さんと話しをする機会は少ないです。しかし、その少ない機会のなかでも患者さんに「会うと元気なれる」といってもらえると嬉しくなります。

私は、免疫の研究と診療の現場は距離が近いと考えています。数年前に研究されていたことが、患者さんの治療に役立てることができているからです。

今後も、日々さまざまなことをキャッチアップし、私自身も勉強を重ねて患者さんの治療に役立てる研究をしていきたいと思います。

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