やると決めたことは徹底的にやりきる

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やると決めたことは徹底的にやりきる

心臓外科のエキスパート 小野稔先生のストーリー

東京大学医学部附属病院 医工連携部 部長、東京大学医学部附属病院 心臓外科 教授
小野 稔 先生

病気で苦しんでいる人を救いたい- 幼少期の実体験が開いた医師への道

医師を目指した一番の理由は、私自身が幼少時から病弱だったからでしょうか。頻繁に熱を出してはすぐ病院に通う、幼少期はこの繰り返しでした。当時、自宅近くの開業医の先生に病気を治療してもらっていたのですが、「ここにくれば自分の病気が治る」という原体験は、幼い私に医師への憧れを抱かせるには十分な出来事でした。

「自分も人の病気を治せる人になりたい」 気がついたときには、そう思っていました。その後、地道に勉強を続け、東京大学医学部に入学しました。 大学に入学した頃は研究者として免疫学をやろうと思っていましたが、大学4年頃から心臓外科に興味を持ち始めました。臨床実習をこなしていく中で、自らの手で患者さんを治して元気にして帰すという外科医の役割に大きな魅力を感じたのです。

またこの時期は、アメリカなどの欧米を中心に心臓移植の実績が増えてきた時期でもあります。さらに1980年代前半には、人工心臓の実用化がアメリカで実現したのです。 こうした時代の流れの中、私の胸中に「いつか日本で心臓移植が実現した時、私がそれを実施できる立場になれたらいいな」という思いがよぎるようになりました。

当時の日本の心臓外科は外科のなかで最も忙しく、高い割合で患者さんが亡くなってしまう状況でした。大変な道であることは覚悟していましたが、私は飽きっぽい性格であったため、チャレンジングな道のほうが飽きずに最後までやりがいを持ってできる分野だとも感じ、心臓外科の道に進むことを決意しました。

様々な医師との仕事が今の自分を作った

卒後12年目にあたる1999年、私は米国オハイオ州立大学に留学し、心臓胸部外科臨床フェローとして2年間低侵襲心臓手術やロボット心臓手術、心臓移植を学びました。 私が心臓外科医として影響を受けた先生は多数おり、日本国内にも一緒に働いていた優秀な先生方や当時の教授からも様々なことを学びました。

外科医としての手術の手技の基本、手術に当たっての計画立て、手術時の心構え、術後の管理。外科医の仕事の基本それぞれの部分でモデルになった先生がいます。多くの方は同年代かそれ以上でしたが、年次が下の先生に影響を受けたこともあります。その意味では、年齢の垣根を取り払い、周囲にいた素晴らしい先生方の良い面をすべて受け入れていったことが、今の私を作ったといえるかもしれません。

医師も医療に命をかける

留学した1999年当時、人工心臓はまだ少なかったものの移植手術は日常茶飯事で、毎日のようにドナーがみつかっては電話がかかってきていました。 手術室の空きの関係で昼間にドナーから臓器をもらうことは難しいため、ほとんどの場合、真夜中にドナーから臓器を摘出し、明け方に病院に戻ってくるというタイムスケジュールです。フェロー(専門研修医)である私の仕事は主にドナーの心臓を病院まで持ち帰ってくること。ただし、この仕事は命がけでした。

あらゆる町にヘリで出向きましたが、移動する時間が真夜中なので、ヘリの発着時、周囲がほぼ真っ暗でなにもみえない状態もざらで、ヘリが墜落して医者が死ぬ事故がときどき報道されていました。私も移植臓器をとりにいくとき、乗っていた救急車が凍結路面でスリップして事故を起こし、骨盤を骨折したことがあります。一歩間違えば大きな後遺症が残ったかもしれません。

日本の医療現場で、医師が命をかけるシーンはほとんどありません。日常的に命をかけることが必ずしもよい選択とは考えませんが、アメリカでの出来事は非常に貴重な経験でした。

オンとオフ。きっちり区別された欧米流の働き方

医師として働く時間は忙しいものの、プライベートの時間は仕事からきっちり離れて楽しめる環境が整っていました。 平日に限らず、週末も毎日病院に通っていましたが、休日は午前中で勤務が終了します。その帰りに、私はよく近場のゴルフコースに行ってゴルフをしていました。大学内にゴルフコースが入っており、職員は安く(当時1ラウンド2000円くらいで)打つことができたのです。

また、病院の近くにある公園に家族で出かけたり、ケンタッキー州やインディアナ州にあるバーボンの醸造所に向かい、そこでバーボンの原酒を嗜んで2時間ほど昼寝をして、お酒が抜けたころに帰ってくるということもありました。非常に広々としたバッティングセンターで気が済むまでバッティングをすることもできました。

脳死ドナーのコールは年間365日24時間、容赦なくやってきます。「よし、今日は寝よう」と思っても、気づけばドナーの心臓摘出に向かっていることもしばしば。しかし、当直とオンコールをローテーションで回していたので、この日は呼び出されることはないという日が必ず設けられていました。 とはいえ、当時の私にはそのような文化がなく、「現地の欧米人と同じように働いていては結果が残せない」と思い込んでいたので、毎日20時ごろまでは病院に残って論文を書いたり読んだりしていました。アメリカ人で同僚のレジデントたちからは「いったい何をやっているんだ?」と不思議がられたものです。「仕事をしていた」、と返事をすると「よくやるな」と。 オンオフをつけながらもきっちり仕事をこなす欧米人の働き方には、我々も学ぶところが多かったのかもしれません。日本の医療現場は今になってやっとアメリカの医療現場に近づくようになってきました。

そして帰国。それからは東大一筋の生活

留学して3年目になる2001年、日本に帰国します。光栄なことに、現地の多くの方々から「アメリカに残ってくれないか」と言っていただきました。おそらく、フェローのなかで最も真面目に患者さんと接すると同時に、唯一多数の論文を書いていたことが評価されていたのでしょう。 嬉しかったのですが、当時の医局の上司である高本眞一先生に強く帰国を命じられたため、7月半ばに帰国し、8月から再び東京大学で勤務を開始します。それ以降、東京大学病院以外に異動したことはありません。

「中途半端なことはしない」次世代の心臓外科医に伝えたいメッセージ

何かに取り組む際、徹底的に調べ、探求を怠らず、すべてに責任を持つことが大切です。 手術ひとつをとってもそうです。手術前の診断や検査結果を頭のなかに入れておき、事故はもちろん些細なミスすらないよう細心の注意を払いながら手術する。術後は患者さんのデータを丹念にチェックし、小さな変化も絶対に見逃がさない。 患者さんに対しては責任を持ち、他の人がどうであろうと、自分はやると決めたことをしっかりとやり遂げる。この徹底した姿勢こそが、最終的にはその人の才能を大きく開花させるのだと思います。

医療現場にいる当時、私自身も常にもがき苦しんでいました。病態のことが十分に理解しきれなかったり、「手術で本当にこの人は助かるのか」など弱気に考えたことが何度もあります。仮に手術が成功しても、「果たしてこの人は元気に退院できるのだろうか」と不安になったこともあります。精神的には苦しい出来事のほうが多かったかもしれません。

それでも決してあきらめず、自分の仕事をやりきることだけを心掛けていました。苦しんだ時間は、裏を返せば自分にとって非常に大きな蓄積であり、これが数十年後の知識量や経験につながると信じていたからです。 教授として後進を指導する立場となった今、私はその考えが間違いでなかったと確信しています。

そして今、若い医師の方々が必死になって仕事をしている姿を見たとき、つい過去の自分の経験を重ね合わせてしまいます。私はこう願うのです。今できる最大限の努力をしてください。あなたの数十年後の未来はキラキラと輝いているから、と。

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