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発災翌日には現地入り―能登半島地震で全日病AMATが果たした役割と見えた課題

公開日

2024年05月20日

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2024年05月20日

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2024年05月20日

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元日の北陸地方を最大震度7の地震が襲った能登半島地震。大地震に見舞われた被災地ではさまざまなものが不足する。「医療の継続体制」もその1つだ。全日本病院協会(以下、全日病)は、医療支援のため100人を超える「AMAT(All Japan Hospital Medical Assistance Team:全日本病院医療支援班)」隊員を現地に派遣した。全日病で災害医療を担う救急・防災委員会の委員長、加納繁照先生(加納総合病院理事長)に、能登半島地震でAMATが果たした役割、派遣で見えた課題などについて聞いた。

地震発生5時間後には出発可能に

「地震発生から5時間後の(2024年1月1日)21時までには被災地に向けて救援チームが出発できる体制が各病院で整っていました」――。人の命を預かる病院とはいえ、正月は医療者、スタッフとも必要最小限の人員で運用している施設も多い。そんなときに起きた震災で「被災地への出動要請に、すぐに受諾可能との反応がいくつもあったことが、驚きであり感動したことでもありました。AMATは国などからの補助があるわけでもなく、純粋に民間病院がボランティアで取り組んでいる状況です。にもかかわらず、たくさんの方がすぐに(出動すると)手を挙げてくれたことは、我々の大きな誇りであると感じています」と加納委員長は胸を張る。

気象庁のまとめによると、今回の震災で最初の大きな地震は1月1日16時6分に石川県珠洲市で最大震度5強を記録。その直後の16時10分、一連の地震活動の中でもっとも大きな揺れとなる最大震度7を石川県輪島市と志賀町で観測した。

最初の大きな地震から5分後の16時11分には、加納委員長が救急・防災委員会のLINEグループに第1報を送信。16時12分には全日病事務局から「情報収集を開始した」との連絡が入った。また、発災から1時間後には猪口雄二会長を本部長、加納委員長と猪口正孝常任理事を中心とする指示命令系統として全日病災害対策本部を設置、会員病院の被害状況確認などにあたった。

「街が壊滅状態」―現地からの報告で派遣要請

会員病院の中で震源にもっとも近い恵寿総合病院(石川県七尾市、理事長=神野正博・全日病副会長)とは1時間以内に連絡がつき、被災状況を確認するなどした。16時52分には、もっとも大きな揺れがあった輪島市に居住する同院AMATの「タスク」(AMATとしての修練を受けた人)から報告が届いた。そこでは「現在高台に避難中。道路が陥没して、街が壊滅状態。病院とは連絡が取れず、災害時の安否確認システムも作動していない」という生々しい状況説明に加え「AMATの支援が必要になる状況と考えられる」との情報も届けられた。

「この貴重な情報で、1時間以内にAMAT派遣要請を出すことができました。それからは、分刻みで指示を出しながら準備を進めました」と加納委員長は振り返る。

北陸地方周辺のAMATに出動要請を行ったところ、東京都の日本医科大学付属病院と南多摩病院がすぐに「先遣AMATとして出動できる」と応答。21時までには他にも出動可能な隊が待機しているという状況になっていた。

AMATの特徴の1つに、自院の救急車で出動することが挙げられる。機動力に優れる一方で、移動の自由度が道路事情に影響されるという面もある。現地の道路状況などを事務局で調査し、その結果をもって1月2日の昼頃、先遣2隊を恵寿総合病院と富山市の富山西総合病院に向かわせた。

先遣隊からの情報で、富山県に関しては被害がそれほど大きくないことが分かり、今回の震災では石川県を舞台にAMATが活動を行うことになった。

最終的に29隊121人が現地入りしたほか、4隊は対策本部で情報収集や後方支援にあたった。

「正月に起きた災害の支援に、あっという間に100人以上が集まったこと自体が誇れることだと思います。さらに、出動には至らなかったものの準備を整えて待機していた隊がほかに14病院14チームあったことも素晴らしいと思っています」と加納委員長は胸を張る。

震源に一番近い恵寿総合病院では古い病棟に大きなダメージがあったが、免震構造の本院は大きな被害がなく、発災翌日には透析を再開し手術もできる状態だった。そのため「互助」に関しては、AMATの活躍の場は限定的だったという。ただ、断水や下水施設の損傷などでトイレが使えないという問題は病院でも起こったため、AMATが恵寿総合病院に約1万回分のシート型の簡易トイレを救急車で運ぶなど、細かな要望にはしっかりと対応した。

40人中11人が「黒タグ」―災害の厳しい現実

災害時に活動する医療関連の支援組織としてはDMAT*、JMAT**もある。その中でAMATは全日病会員病院の互助を目的に活動を開始する。今回の震災では、発災数日後に民間病院同士の「互助」から避難者などに対する「公助」に活動を転換。より震源域に近い輪島市の公立病院などで医療支援にあたった。

そうした活動のなかで、七尾市の公立能登総合病院に入った隊から加納委員長の下に「隔離された避難所から約40人の患者が移送される。うち11人は『黒タグ』らしい」との連絡が入った。「黒タグ」とは、災害などで多数の傷病者が発生した場合に、緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めるトリアージで「すでに死亡している、または明らかに即死状態であり、心肺蘇生を施しても蘇生の可能性のない」人につける識別票のことだ。

「おそらく、道路網の寸断で隔絶された場所に、重篤な方を含めて多数の負傷者がおられたのでしょう。連絡を受けたとき『どういうことだ』と驚いたのですが、それが大きな災害の現実であるということも過去の体験から理解しています。これは1つの例で、現地は大変な状況だったことが推察されます」と加納委員長。

AMATは、JMATが現地入りすると交代で撤収する流れとしており、JMATの活動が1月12日以降本格化するとの情報を確認し、AMATは避難者を含めた救急医療活動を11日で終了、撤収した。

*DMAT:Disaster Medical Assistance Team=災害派遣医療チーム 自然災害や大規模な事故などの集団災害時に、必要な医療提供体制を支援し、傷病者の生命を守るために派遣される、厚生労働省の認めた専門的な研修・訓練を受けた医療チーム。

**JMAT:Japan Medical Association Team=日本医師会災害医療チーム 被災者の生命および健康を守り、被災地の公衆衛生を回復し、地域医療や地域包括ケアシステムの再生・復興を支援することを目的とする日本医師会の災害医療チーム。

“民間病院の心意気”感じた活動

AMATは2011年3月に起こった東日本大震災で、民間病院が苦境に陥ったことから設立に至った。1995年に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに、大規模災害や多くのけが人が発生するような大規模事故の際、すぐに現場で活動できる医療チーム「DMAT」が創設され、災害医療を行う医療機関を支援する病院である「災害拠点病院」が全国に設置された。ところが、東日本大震災では災害拠点病院にはDMATが派遣され支援物資が送られた一方、民間病院には支援の手が届かなかった。こうした現実に対し、災害に見舞われた民間病院の支援体制を確立・強化するために設立されたのがAMATだ。

発足以降いつ起こるか分からない災害に備え、2016年4月の熊本地震、西日本を中心に全国の広い範囲で記録的な大雨が降った2018年6~7月の豪雨災害などで活動してきた。訓練と経験を積んできたが、災害には2つと同じ現場がなく、想定外の状況や出来事が起こりうる。

今回の災害派遣でも課題が見つかった。加納委員長が解説する。

「メディアで報道されているように、能登半島地震では多くの道路が寸断されました。そうしたなか、AMATは道なき道を移動するという状況になり、非常に苦労したと聞いています。また、全ての隊が衛星電話を所持しているわけではなかったのですが、情報網も大きく損なわれる災害では衛星電話がないと連絡が非常に難しくなってしまうため、今後に備えて検討が必要と感じました。隊員の宿泊先の確保、冬の北国での車の運転、万一の事故などに備えた隊員の保険の補償項目の見直しなどさまざまな問題が見つかりました」

一方で、AMATの意義を再認識したとも加納委員長は言う。「AMATに対する各病院の意識が非常に高かったのが、一番うれしかったことです。自主的にこれだけの災害活動ができたことに、民間病院の心意気を感じました」

今回の災害出動で見えた課題と成果を整理し、貴重な経験として積み上げて今後の活動につなげていくという。
 

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