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病院で“ファーストクラスのおもてなし”を―JALと作る「おいしい病院食」プロジェクト

公開日

2025年02月06日

更新日

2025年02月06日

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2025年02月06日

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メラミンの食器に盛られた味気ない料理がトレーに載せて提供され、必要なカロリーと栄養素を摂取するだけで味は期待できない――多くの人が「病院食」に持つイメージはそのようなものではないだろうか。しかし、食事は入院患者にとって療養の重要な要素の1つであり、入院中の唯一の楽しみと思っている人も多い。病院食のイメージを変え、患者においしい食事を提供したいと、佐賀県小城市の江口病院が日本航空(以下、JAL)とのコラボで病院食の位置づけを向上させる取り組みを始めた。江口有一郎理事長に、取り組みの背景と成果について聞いた。

「病院食をおいしくしたい」―前理事長の思い

ちょっとした人違いから、そのプロジェクトは始まった。

2023年2月、出張先へ向かう江口理事長は、福岡空港の搭乗ゲートで旧知の職員と間違ってJAL九州支社事業部第2事業グループの乃美恵輔さんに声をかけた。人違いと分かり、その場で名刺交換。後日乃美さんは営業活動もかねて江口病院を訪問した。

航空業界は、新型コロナウイルス感染症の流行による旅行需要の激減で本業に大きな打撃を受けた。それを補うためにJALは自社の持つ経験やノウハウを生かした新規非航空事業の開発に取り組み、2023年ごろから本格展開を始めていた。そうした新規事業の1つに、国際線の機内食を調理するジャルロイヤルケータリング(以下、JRC)による、地域特産品を使ったメニュー開発というコラボレーション企画があった。

江口病院を訪れた乃美さんは、企業向けの出張システムなどの説明に加えて、そうした新規事業についても紹介。JRCによるメニュー開発に触れたところ、江口理事長が「これ、うちでもできないだろうか」と持ち掛けたことがプロジェクトに発展した。

江口病院は一般病床42床、医療療養病床56床の、地域に根差した医療機関だ。前理事長の江口尚久会長も食にこだわりがあり、病院食をおいしくしたいと努力を重ねてきたという。

「有名なホテルや料亭のシェフが監修した『特別食』などを提供する病院もあるようです。コストをかければおいしいものができるのは当たり前ですが、私たちが目指すのは全ての患者さんにおいしく食べてもらえる食事を提供することです。一方で、病院食はさまざまな規則・規制をクリアし、コストも意識する必要があります。機内食にはそのノウハウがあるのではないかと思い『病院食をおいしくしてもらえませんか』と、乃美さんにお話ししたのが最初のきっかけになりました」と、江口理事長は発端を説明する。

JRCによるメニュー開発事業は、主に自治体などを対象に想定したプログラムだった。JAL社内では「命を預かる病院に、“門外漢”が口を出していいのか」などさまざまな意見があったが、最終的に「患者さんのためになるのであれば」と、事業としてゴーサインが出た。これを受けて2023年6月、江口病院の看護部長以下、管理栄養士、調理師など15人のチームで「地域密着型の消化器専門病院における国内大手エアライン伴走型多職種協働『日本一美味(おい)しい病院食ご提供プロジェクト』」がスタートした。

同じ料理もトレイが変わるだけでおいしそうに見える

メニュー開発のコツ学び意識改革も

「食事というのは、料理の味だけでなく器や配膳する人の所作などさまざまな要因によっておいしくもなれば味気なくもなります」と江口理事長。味以外の要素も学ぶため、チームのメンバーはプロジェクトの初期段階で福岡―羽田便のファーストクラスに搭乗、客室乗務員の立ち居振る舞い、食事の配膳の作法などを学んだ。東京ではJRCの羽田工場で衛生管理や生産手法に関する質疑応答、国際線の機内食試食、管理栄養士のレクチャーと意見交換などによって基礎知識を身につけた。 

JRC側からは名門料亭出身の和食総料理長や食材調達の担当者が2回、現地を訪問。プロジェクトのメンバーは一緒に厨房に入って共同でメニュー開発をしたり、調理や盛り付け、作業導線の改善、季節ごとの食材の選び方やコスト管理のコツなどを学んだりした。食事は毎日三度、休むことなく提供する必要があり、全てのメニューをここで新たに開発するのは現実的ではない。プロジェクトでは“看板メニュー”をいくつか作ったほか、季節に合わせてどのような料理を提供するかというレシピ開発の考え方、料理がおいしくなったり見栄えがよくなったりするような調理のコツといったノウハウを教わったという。

鶏肉料理の下ごしらえを学ぶスタッフ

「非常にシンプルだけど衝撃的だった助言に『信号の3色(緑、黄、赤)と白と黒の5色が1つのお盆に乗っていると、おいしそうに見える』というものがありました。黒が足りなければゴマを振る、緑が足りなければ葉物野菜で色を添えるといったように、栄養と味を主に考えている病院のスタッフでは思いつかないような発想を教わりました」と、江口理事長は振り返る。

ほかにもJAL九州支社の担当者や東京のソリューション営業推進部の社員などが延べ10回程度現地を訪れ、コミュニケーションを重ねた。配膳・下膳の際の所作もまた食事のおいしさに影響するとして、看護師や介護士らスタッフがアドバイスを受けるなどして持続的な意識改革が図られた。

食事は舌だけで味わうものではない。きれいな食器に盛り付けられた料理はおいしそうに見えるし、おすすめの料理について事前に説明されれば味に深みが増すこともある。そこで、通常のトレーに彩りを添えるマットを敷くほか、個室の患者には特注の“黒に朱塗り風”のお盆で提供。配膳の際にはスタッフがおすすめの一品について説明するという、味以外の要素についても配慮を重ねている。

「お盆が黒いだけで、高齢の方は『お膳が来た』と言って喜んでくださいます。最初に目で味わっていらっしゃるのです」と江口理事長は言う。

学会で取り組みを発表

病院で提供する食事は、患者の病気や状態に合わせて個別にさまざまな配慮をしている。塩分、たんぱく質、カロリーなどの制限に加え、高齢で嚥下(えんげ=飲み込み)機能が低下した患者には、飲み込みやすく加工した料理を提供したり、アレルギーがある患者には原因食材を除去したりする。多くの制限があるなかで、どうやって「おいしさ」を担保するかは知恵の絞りどころだ。

「たとえば、塩分は1日トータルの摂取量が規定値内に収まっていればいいので、主菜は通常の塩分量でつくる代わりに、副菜などは塩分に頼らない味付けにするなど、工夫はいろいろとできます」と江口理事長はコツの一端を披露する。

いくらおいしい食事を提供しても、その分費用がかかれば患者の負担が増えることになる。旬の地場産品を使ったり、材料費にもメリハリをつけて、こだわらなくてよい部分では材料費を抑えたりすることで、年間の食事にかかるコストはほぼ変わっていないという。

プロジェクトは2024年2月の院内発表会をもって完結した。当日は江口尚久会長が患者役になり、成果の「おいしい病院食」を実食。その後、継続的に患者に提供されている。また同年11月、神戸市で開かれた日本消化器関連学会機構の学術集会で、チームリーダーの松本美さとさんらが取り組みについて発表。2025年1月には、京都市で開かれた日本病態栄養学会年次学術集会のレシピコンテストで、栄養科が同プロジェクトで学んだことを生かして考案したレシピが会長賞を受けた。

「退院の際のアンケートに『ごはんがおいしかった』という意見をいただけるようになり、『食事がおいしいと聞いたのでこの病院に入院した』という患者さんもいらっしゃいました。料理についての説明をするため、栄養科の職員と看護師・介護士のコミュニケーションが活性化し、院内の雰囲気がよくなったと感じます」と、松本さんはプロジェクトの効果を語る。

今後の課題は、スタッフの入れ替わりもあるなかで、おいしい病院食の提供を「持続可能なカルチャー」にしていくことだという。

他院にも「おいしい病院食」の広がりを

「光熱費も人件費もどんどん上がる一方で、診療報酬はほとんど変わらないため、今はどの病院も経営が苦しいと思います。おいしい食事を出すからといって、患者さんが激増するわけではありません。食事だけでなくさまざまなサービスを向上させ、存在感やブランド力を高めて『この病院はつぶせない』と地域の方々に思ってもらえるようになっていかなければ、中小病院は生き残ることができないと思っています」と江口理事長は危機感を語る。

江口理事長はこの取り組みを自院だけで終わらせるのではなく全国の病院に広めたいと、2024年9月に京都市で開かれた全日本病院学会に企業ブースを出展して事業の説明をするよう乃美さんにすすめた。その結果、別の病院でも新たな取り組みの検討が進んでいる。

多くの病院に広がれば、「入院するとおいしいご飯が食べられる」と、病院食のイメージが変わっていくかもしれない。
 

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