私たちの耳は、何らかの原因によって聞こえづらくなることがあります。このような状態を難聴といいます。一言で難聴といっても、その原因や程度はさまざまです。
長年、難聴の治療に携わっていらっしゃる慶應義塾大学病院の小川 郁先生は「人生100年時代を迎え、いかに聴覚を維持するかが重要になる」とおっしゃいます。今回は小川先生に、難聴の概要やその原因となりうる鼓膜穿孔(鼓膜に穴があいた状態)の治療法とともに、聴覚を維持するために注意すべきことなどについてお伺いしました。
聴覚障害の1つである難聴とは、何らかの原因によって聞こえの感度が低下した状態を指します。片方の耳のみに現れることもありますし、両方の耳に現れることもあります。難聴になると、程度に差はあるものの本来聞こえるべき音が聞き取りにくくなります。
難聴は、主に伝音難聴と感音難聴に分けられ、それぞれ特徴が異なります。
伝音難聴とは、音がうまく伝わらないことで起こる難聴です。
私たちの耳は、主に外耳・中耳・内耳の3つから構成されています。音が耳の穴から中に入ると、外耳道を通り鼓膜を振動させます。中耳には音を増幅させるはたらきのある耳小骨(ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨という3つの骨)と呼ばれる骨があり、そこで増幅された音は次に内耳へと入っていきます。内耳は、硬い骨に守られた非常に繊細な器官です。内耳の中には、音を感じるためのセンサーのような機能が備わっています。
この外耳や中耳における何らかの障害によって音がうまく伝わらず、音に対する感度が低下した状態が伝音難聴です。伝音難聴は、慢性中耳炎による鼓膜穿孔(鼓膜に穴があいた状態)などを原因として起こることがあります。
感音難聴とは、音をうまく感じることができないために起こる難聴です。
内耳には、物理的な音の振動を電気信号に変換するはたらきがあります。変換された信号は、聴神経から大脳にある聴覚野へと進みます。この内耳から大脳の聴覚野までの障害によって起こるものが感音難聴です。
伝音難聴と感音難聴は、必ずしもどちらか一方のみになるというわけではありません。なかには、伝音難聴と感音難聴の両方が現れる方もいらっしゃいます。両方の難聴が混在した状態を混合性難聴と呼びます。
難聴になったとしても、日常生活に大きな支障がないために治療しないまま放置している方もいらっしゃると思います。治療せずに難聴が進行するとどのようなリスクが考えられるのでしょうか。
難聴は、認知症のリスク因子の1つといわれています。厚生労働省が策定している認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)では、認知症のリスク因子の1つに難聴が挙げられています。なぜ難聴が認知症につながることがあると考えられているのでしょうか。それは、聴力と認知機能に深い関連があるからです。
言葉の情報は、日常的に認知機能に刺激を与えています。私たちは、日頃からいろいろな音を聞き取り、脳の中で言葉の情報から多彩な感情を引き起こしています。難聴になったとしても、片方の耳がきちんと聞こえており、言葉の意味を理解することができれば、“楽しい”“悲しい”などの感情を抱くことができるわけです。そういう意味では、片方の耳が聞こえづらいからといって認知症へと進行するわけではありません。
しかし、両方の耳が聞こえづらくなることで会話に支障が出るようになると、十分な会話の刺激がなくなり社会的に孤立してしまうことがあります。すると、さまざまな感情を引き起こす機会が少なくなり、認知機能の低下につながることが考えられます。
鼓膜穿孔が原因で伝音難聴が現れていたとしても“痛くもかゆくもないから放っておく”という方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そのままにしておくことで鼓膜の穴からばい菌が入り中耳炎となり、さらに内耳まで波及すると内耳炎となり内耳の状態が悪くなることがあります。すると、それまでは伝音難聴しか現れていなかったのに、今後は感音難聴も現れるようになり混合性難聴へと進行してしまう可能性があります。
子どもから中年期くらいまでなど比較的免疫力が強い状態であると、それが重大な病気につながるケースは少ないかもしれません。一方、高齢で免疫機能が弱まっている方の場合には、髄膜炎*まで進行する可能性があります。髄膜炎まで進行すると、命に関わる可能性もあるため注意が必要です。
*髄膜炎:脳を覆う髄膜に炎症が生じる病気
難聴の原因はさまざまです。たとえば、遺伝子の変異、加齢による聴力機能の低下、慢性中耳炎によって生じる鼓膜穿孔などがあります。また、メニエール病など何らかの病気が原因となり、難聴が起こることもあります。突発性難聴のように、なかには原因が特定できないものもあるでしょう。
ここからは、伝音難聴の原因の1つである鼓膜穿孔について詳しく解説していきます。
そもそも、なぜ鼓膜穿孔はできるのでしょうか。原因としてもっとも多いものは、幼少期の中耳炎です。子どもの頃に慢性中耳炎から鼓膜穿孔になり、そのまま治療せずに成人してしまう方もいらっしゃいます。ほかにも、耳掃除をしているときに鼓膜を破いてしまい、そのまま鼓膜の穴が塞がらず鼓膜穿孔にいたるケースもあります。20~30歳代の女性に比較的多いのは、耳掃除をしているときに子どもがぶつかってきたために鼓膜を傷つけてしまうケースです。
一度中耳炎を発症しただけでは、鼓膜に穴があいたとしても自然と治ることが多いでしょう。耳の中の膿が全て出てしまえば、鼓膜が再生し自然と穴が塞がるからです。
しかし、中耳炎を繰り返してしまうと、鼓膜の穴が塞がる前に再び耳の中に膿がたまってしまい、耳だれ(耳の中から出る分泌液)が止まらなくなってしまいます。このような中耳炎を繰り返す慢性中耳炎によって鼓膜穿孔が生じ、その結果、難聴になるケースが多いです。
お話ししたように、鼓膜穿孔は伝音難聴の原因となることに加えて、治療せずにそのままにしておくと感音難聴やほかの病気につながる可能性があります。このため、鼓膜穿孔を治療することで難聴の改善や、ほかの病気の予防につながるでしょう。
鼓膜穿孔の治療の選択肢には、主に鼓膜形成術や鼓室形成術などの手術と、薬による鼓膜再生療法があります。最近まで鼓膜穿孔を治すためには手術しか選択肢がありませんでしたが、2019年にトラフェルミンという薬によって鼓膜を修復する“鼓膜再生療法”という新たな治療法が登場しました。
これらの治療によって鼓膜の穴が塞がると、難聴の改善につながります。
手術には、大きく鼓膜形成術と鼓室形成術があります。どちらを行うかは鼓膜穿孔の大きさや患者さんの聴力の状態などを考慮し決定します。
鼓膜形成術は、皮下組織などを移植することによって鼓膜の穴をとじる手術です。鼓膜形成術で十分に聴力の改善が見込めるケースで行います。鼓膜形成術は、方法によっては日帰りで手術を行うことができる場合もありますが、長ければ2~3日の入院が必要となることもあります。
事前の検査で、鼓膜形成術で鼓膜の穴を塞いでも聴力が十分に改善しないと判断した場合には、鼓室形成術を行うことがあります。たとえば、長年の鼓膜穿孔によって鼓膜の奥の耳小骨が障害されている場合には鼓室形成術による手術を行います。鼓室形成術とは、穴があいた鼓膜とともに中耳内の清掃を行い、鼓膜から内耳までをつなぎ直す手術です。手術は全身麻酔によって行われ、2~3時間程かかります。なお、通常1週間程の入院が必要となります。
鼓膜再生療法とは、2019年に新たに登場したトラフェルミンという薬を用いて、鼓膜を修復する治療法です。鼓膜再生療法は入院の必要がなく、外来で治療を受けることができます。
鼓膜再生療法は、体の再生能力を利用した治療法です。たとえば、手をすりむくと体は組織の再生を促す増殖因子を出します。単純にトラフェルミンを鼓膜穿孔のところに塗ったとしても再生は起こりません。組織が再生するためには傷が必要となります。
鼓膜再生療法では、鼓膜穿孔の周辺に局所麻酔をしたうえで、鼓膜穿孔の周辺に傷をつくります。その後、トラフェルミンを浸透させたスポンジを鼓膜穿孔部分に置き、生体接着剤と呼ばれる糊を使って固めます。1か月程度そのまま放置した後に鼓膜がつくられます。
もしも1回の治療で鼓膜の穴が塞がらなかったとしても、4回まで鼓膜再生療法を受けることが可能です。
鼓膜穿孔により難聴になっている患者さんの中には、社会的あるいは経済的な負担によって手術を希望されない方もいらっしゃいます。また、“片方の耳が聞こえているから問題ない”と考える方もいらっしゃいますし、“補聴器をつければ聞こえるから手術を受けなくてもよい”と考える方もいらっしゃいます。
これに対して、新しく登場した鼓膜再生療法は、入院の必要がなく外来で治療を受けることが可能です。超高齢化社会でQOL(生活の質)を保ちながら過ごしていただくために、負担が少なく簡便な治療法で改善することができるのなら、積極的にご検討いただきたいと思っています。
実際に、私が知る限り「この治療法だったら受けたい」とおっしゃる患者さんも増えています。鼓膜穿孔により難聴になっている患者さんに対して、おすすめできる治療法が1つ誕生したと考えています。
鼓膜穿孔の治療後に再発することはほとんどないと考えてよいでしょう。
たとえば、鼓膜形成術や鼓室形成術などで新しく鼓膜をつくった場合には、手術後に中耳炎を繰り返すなどの場合を除いて、再発することはあまりありません。鼓膜再生療法によってつくられた鼓膜に関しても、耳掃除によって傷つけるようなことがなければ再発する可能性は低いと考えられます。
治療後は、耳掃除の際に鼓膜を傷つけることがないよう注意していただきたいと思います。また、飛行機に乗ったときなどに耳が痛くなるようなことがあれば、鼻や、鼻と中耳との間の耳管に何らかの異常がある場合もあるので主治医の先生に相談するようにしてください。
日本は、人生100年時代を迎えたといわれています。寿命が長くなったことに伴って、言葉を聞き取るための聴力を80~100年にわたりいかに維持するか、今後はそれを考えていかなければなりません。
少し聞こえが悪くなったと感じたら、10年後20年後の自分を想像して早めに補聴器などでトレーニングを始めることをおすすめします。脳には非常に優秀な能力があり、まばらな情報であったとしても、本来は音が入ってくるはずの部分を頭の中でイメージして、言葉として理解することができます。そのためには、早いうちから補聴器などによって聞こえの状態を改善しながら脳のトレーニングに取り組むことが大切になると思います。また、大きな音から耳を守ったり、ある程度使ったらきちんと休ませたりするような予防も大切です。もしも難聴が進行してしまったら治療による介入も検討してください。
聞こえにおいて大きな役割を果たす内耳の状態を悪化させないことも大切です。内耳は非常に小さな器官であり、内耳にある有毛細胞に栄養を送っている血管も非常に細いです。そのため、たとえば、脂質異常症で中性脂肪が高かったり、糖尿病など血糖が高かったりすると血液がドロドロになり内耳にも悪影響を及ぼすことがあります。このように、生活習慣病などを放置していると聴力が悪化しやすくなります。聴力を悪化させないためにも、生活習慣病には注意していただきたいと思います。
超高齢化社会を迎え、80年~100年もの期間、いかにきちんと機能するような聴覚を維持していただくかが大切になります。鼓膜穿孔を原因とする難聴をはじめとして、難聴が現れ始めている方は、できる限り進行を予防していくことも重要です。もしも難聴が進行した場合には、なるべく早く治療などによる介入を検討してください。
慶応義塾大学医学部 名誉教授、オトクリニック東京 院長、(株)オトリンク 代表取締役
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