ウィキペディアにも載っている「医学を基礎とするまちづくり(MBT)」という言葉は、奈良県立医科大学理事長・学長の細井裕司先生が自らの経験を基に提唱したものです。医学知識をあらゆる産業に応用して実社会に貢献しようとする発想・過程を指します。MBTは実際にどのように発展しているのでしょうか。細井先生に伺います。
まず、MBTの前段の概念であるMBEについて説明したいと思います。MBE(Medicine-Based Engineering:医学を基礎とする工学・産業創生)は、MRIやCTのような工学的進歩が医学を助けるME(医用工学)の反対の概念として提唱しました。つまり、医学的発見、進歩、英知を工学や産業に生かす概念です。MBEを人が住むまちなかで実現するのが、MBT(Medicine-Based Town、医学を基礎とするまちづくり)ということになります。つまり、これまで主に患者さんの治療に使っていた医学の知識を、さらに広く用いて産業創生やまちづくりに活用するということです。
ポイントは、医学的発展を単に医療の中だけにとどめるのではなく「あらゆる産業」において実社会で役立つ技術などに応用すること。たとえば、電気器具をつくるときにいちいち医師に相談してはいないでしょう。しかし、電気器具を使用するのは人です。その器具から発せられる光がどのように人に影響を及ぼすのか、その音の周波数は健康によいのかなど、製品単独ではその製品がよいのか悪いのか評価できません。人が使って初めて善し悪しが分かります。人と物の組み合わせが大切です。そして、人を研究しているのは医学です。つまり、正しい製品づくり・まちづくりには医学が必須ということです。
MBTの発想の原点は3つあります。1つ目は2004年に想起した住居医学です。この発想に基づき始まったのが、奈良県立医科大学(以下、奈良医大) の「住居医学講座(大和ハウス寄付講座)」です。人がもっとも長く時間を過ごす「住居」を医学的視点で研究し、生活習慣病の予防やQOL(生活の質)向上につなげる試みを行いました。住居医学の活動はまちづくりへと発展し、現在のMBTの前身となりました。
2つ目は、骨伝導(後に記す「軟骨伝導」とはまったく異なる聞こえです)の製品を製造・販売したメーカーが聞こえのメカニズムをまったく知らずに失敗した例を経験したことです。製品の知識だけでなく、使う「人」についての医学的知識が必要なことを痛感しました。
3つ目は、医学研究は論文発表で終わってはならないと思ったこと。製品となって人々のもとに届けられて初めて人々の役に立つということを、私自身の「軟骨伝導聴覚」の発見から想起しました。
従来から、人が音を知覚するためには空気の疎密波による「気導聴覚」と内耳を収納する骨に直接振動を伝える「骨導聴覚」が知られていました(イラストの青色の線が気導聴覚で、緑色の線が骨導聴覚)。私は第3の聴覚経路となる「軟骨伝導」を2004年に発見しました(同赤色の線)。これは、耳周囲の軟骨を振動させることで効率よく音を伝える方法です。
軟骨伝導の仕組み
軟骨伝導のメリットは▽骨伝導のように骨を駆動する必要がないので、消費エネルギーが小さく、振動子を骨に強く圧着しないため痛みがない▽左右の内耳に別々の情報を伝えるのでステレオ音が実現できる▽本人の外耳道内に音が生成されるので、音量を上げても隣の人に聞かれる心配がなく、高齢・難聴の方にも聞きやすい音が提供できる▽通信機器からの音を聞きながら同時に外界の音も聞ける――といった点です。
発見後13年かかりましたが、「軟骨伝導補聴器」として製品に応用されました。一般的な補聴器が付けにくい外耳道閉鎖症の子どもでも装着しやすい補聴器として重宝されています。今後、難聴を持つ高齢の方にも聞きやすい軟骨伝導電話が開発されれば、認知症予防にもなると期待されています。
MBT構想を加速させるべく、2016年に「一般社団法人MBTコンソーシアム」を設立しました。MBTコンソーシアムが目指すのは、少子高齢社会を快適に過ごすまちづくり、新産業の創生、新製品の開発、それによってもたらされる地方創生です。
会員登録した企業は、各分野の専門知識を有する医師などから情報提供を受け、医学的知見に基づく製品・サービスの開発が可能になります。日本全国の企業が会員となり、現在は190社を超える企業がMBTコンソーシアムに参画しています(2021年5月時点)。
MBTコンソーシアムの活動は、社会・医療者・企業それぞれに恩恵をもたらします。
社会の視点では、それまで個々の患者さんにしか使われていなかった医学の知識を広く産業に活用することで、新たな視点でのイノベーションにつながります。医療者は、持っている知識を個々の患者さんの治療・ケア、あるいは論文発表にとどめることなく、製品を通じてより多くの人に貢献するために使うことが可能になりました。そして企業は、開発の過程で医学的な視点が必要なときに専門家に相談しやすく、医学的に正しい製品・サービスを生み出すことが容易になったのです。
活動事例としては、奈良医大発のベンチャー企業「MBTリンク株式会社」の活動があります。構想は2012年にスタートし、2018年に創業。メイン事業はヘルスケアサービスで、スマートウォッチなどでバイタルデータをリアルタイムに計測し管理システムに送信することで個人の健康を見守る仕組みを提案しています。活用方法として、企業における従業員の健康管理、介護サービスにおける利用者(高齢の方など)のモニタリングなどがあります。
写真:PIXTA
MBTコンソーシアムを通じてこれまでにいくつもの製品・サービスが生まれています。
たとえば、頭を動かしたときに自分や周囲の物が動いたり回転したりしている感覚に陥る良性発作性頭位めまい症(BBVP)と耳石の関連性に関する論文があり、それを基にめまいの症状を予防するマットレスが2019年にできました。また、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の患者さんを病院と別の空間で対応するプレハブ型の「MBT感染症外来ユニット」が2020年に、スマホ画面で心電図や心拍数など患者さんの生体波形チェックができるナースコールシステム「Safety Net-MBT」が2021年に実用化されました。
MBTコンソーシアムは奈良医大と共同でCOVID-19対策に取り組んでいます。その1つが「感染防止の本質を啓発すること」です。感染防止の本質は「3密回避」ではなく「3感染ルート(飛沫、接触、エアロゾル)遮断」です。100%「3密回避」をしても感染を100%防止することできませんが、「3感染ルート遮断」が100%行われると、理論上は100%感染を防止することができます。
3密であるパチンコ店でクラスターが起こらず、3密でない家庭内での感染が多いことは何が本質かを考える材料になります。まず「3感染ルート遮断」に基づく対策をきっちり行う教育が必要だと考えています。たとえばトレーを介した金銭のやり取り(直接のやり取りとウイルスの移動が変わらない)、テーブルの上面だけを拭く(体や手の当たる縁の部分は拭かない)などが行われていますが、おそらく上司から言われてそのようにしているのでしょう。手指消毒は店の入り口ではなく、食事直前にしないと意味がありません。各テーブルに消毒液を配置するなどの対策があってしかるべきだと思います。
どのようにすれば感染を防止できるのかを個々人が考えられるように教育することが必要です。この教育により「5人以上の会食はいけない」と言うと「4人ならよいですか?」という質問が来ることはなくなると思います。医学的観点で検討されたCOVID-19対策(企業向け)については、MBTコンソーシアムのページをご覧ください。
今後はMBTの発想をさらに全国に広め、医学を実社会に役立てる取り組みを進めていきたいと考えています。これまで医療界の中にとどまっていた知識を活用することで、医学的に正しい製品・サービスが生まれ、産業創生や地域活性化につながるでしょう。MBTでは「医学に基づく世界規模の産業イノベーション」を起こすために、種々の取り組みを行っています。
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