DOCTOR’S
STORIES
患者さんの幸せにつながる医療を貫き続ける精神科医、繁田雅弘先生のストーリー
医学生や精神神経科の研修医として学ぶうち、私が出会ってきた患者さんのなかには、がんから生還したにもかかわらず患者さんが自ら命を絶ってしまう方、下肢機能を失った患者さんが義足によって日常生活に復帰できたにもかかわらず、無気力状態に陥る方などがおられました。
「治療で身体が回復したのに、幸せでない人がなぜいるのだろう?」
医師として感じる漠然とした疑問は、大きくなっていきました。その後、精神科医として経験を積めば積むほど、「医療が患者さんの生活や人生にプラスになるためには、どのような治療や支援をすべきか」ということを考えるようになっていきました。
1998年、新潟の糸魚川で数ヶ月間に渡り疫学調査を行ったときのことです。4名の研究グループで合計1,500名以上を対象に、各家庭を訪問し高齢者を診察するなかで、身体的な疾患はもちろん、貧しい生活をしている方や、妄想・幻聴といった強い精神症状に苦しむ方など、様々なケースの患者さんを目の当たりにします。
ある日、1軒の裕福な家を訪ねました。診察対象の男性は一目で高価とわかる洋服に身を包み、高級な分厚い座布団に座っていました。男性は認知症でしたが家族と一緒に暮らしていますし、大きな問題のないケースだろうと考えていました。ところが実際に会ってみると、彼は非常に寂しそうな表情をしていました。
「おじいちゃんはいつもどちらに?」
とご家族に尋ねると、ほぼ1日中家の一番奥の部屋で、一人きりで過ごしているとの返事。そのご家族から、男性に対する心からの親しみや愛情は感じられませんでした。そのとき私は、男性が家族から精神的に大切にされていないために、あのような寂しげな表情をしているのだと感じました。
一方で、たとえ貧しい生活をしていて、強い精神症状があっても、家族に囲まれて幸せそうに笑う方もいました。疫学調査で出会ったのは、ほとんどが70代後半のご高齢者。人生の終わりはかくあるべき。そんな光景を垣間見たような気がしました。
この経験を通して、病気を治すだけではなく、患者さんが幸せになれる治療をしなければいけないことを知ったのです。
30歳を過ぎた頃には、いつの間にか高齢者の精神障害を専門にしていました。
ご存知のとおり、認知症は完治することがありません。医師は患者さんと家族の人生に密接にかかわり続ける必要があるのです。つまり認知症は「どのように治療するか」と「いかに家族と治療を共有するか」が非常に重要なのです。
認知症によって患者さんが障害者の烙印を押されることや、患者さんが家族から孤立し、生きる気力を失うような事態は免れるべきです。目指すのは、認知症そのものを家族が理解し、受け容れ、患者さんが幸せに生活できること。それを実現するためには、患者さんと家族の気持ちに寄り添う治療が必要なのです。
2014年頃、ある認知症の患者さんの治療を始めました。
「認知症になってから周りにボケたと言われるし、体も辛い。早く死にたい—」彼女は会うたびに絶望的な言葉を口にしました。私は、彼女の死にたいという想いに耳を傾けながら、「死」以外にも関心を向けられることがあるだろうか、などといった対話を続けました。また薬は飲まないという彼女の選択を尊重し、治療に抗うつ剤は使わずに、精神療法のみを行いました。こうしてご家族の「認知症」についての理解が深まり、共に協力できる体制が整っていったのです。
投薬治療をしなかったので時間はかかりましたが、少しずつ、彼女の笑顔が増えていきました。治療を重ねるうち、「死にたい」が「死んでもいい」になり、あるとき「明日死んでもよいのですか?」と尋ねると、彼女は「明日は、まだ死にたくない—」と口にしたのです。娘さんはご自身で様々な生活の工夫を凝らし、母親との関係性を新たに構築してくれました。そして「母の認知症をきっかけに、家族の時間が充実したものになりました」と私に話してくれたのです。
症状がほとんどなくなった今でも、彼女は娘さんとともに月に一度、私のもとへやってきます。娘さんによれば、私を訪問することは、自分の過去を振り返って心を整理し、明日からの過ごし方を考える、よいきっかけになるのだそうです。「今はとても幸せです。」と彼女はいいます。その言葉は、精神科医として最高の言葉でした。
治療に際しては、患者さんの希望と選択をできる限り引き出すようにしています。患者さんの目指すゴールを聞き、それに合った治療法の選択肢を提示したうえで、患者さんとともに治療を選びます。
ときに、ある症状に対しては治療をするけれども、別のある症状は治療をしないという選択もあります。しかし患者さんの幸せに結びつく医療を行うためには、その方が何を苦しんでいるのか、治療によって何をよくしたいのかを理解した上で治療法を考え、患者さん自身が選択することが大切なのです。
精神科領域の疾患は、わかっていないことが数多くあります。そのような未開の精神科分野において、疑問を自ら検証し解明できる裁量の大きさに、医師として非常にやりがいを感じています。
医師のもっとも大きな務めは、患者さんの病気を治すこと。しかし体の病気が治ったとしても、患者さんの心が幸せを感じられなければ、それは良い治療とはいえません。「この病院で治療をしてよかった」患者さんがそう思える、よい医療を提供したい。その責任感が、私を突き動かしている気がします。
私はこれまでの医師人生で、疑問は自身で検証し、納得するまで追究してきました。その結果、ようやく医師として貫くべき医療に実感を持てるようになり、母校での教育に携わりたいと考えたのは、2015年頃のことです。
現在私は、東京慈恵会医科大学の精神医学講座の教授として「患者さんと家族に敬意を払う医療」を後進に伝えることに力を注いでいます。敬意を払うとは、たとえわかりにくいものであっても、患者さんの意思や要望を尊重することです。それは、患者さんの生活や人生を大切に考えることでもあります。それができれば、治療の優先順位は自ずと見えてくるはずなのです。
患者さんと家族に敬意を払い、注意深く心の声に耳を傾ける医療は、患者さんと家族の幸せにつながります。そのような医療を私はこれからも貫き、後進の医師たちに惜しみなく伝えていきたいと考えています。
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