連載新型コロナワクチンを知る

社会全体の健康増進をめざす「公衆衛生」の大切さ―救急医・木下喬弘先生とHPVワクチン問題の出会い【前編】

公開日

2021年02月24日

更新日

2021年02月24日

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2021年02月24日

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子宮頸(しきゅうけい)がんの発症予防につながるHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチン。世界的には安全性や有効性が立証され、各国で接種率が向上しているワクチンですが、日本では副反応の過剰報道をきっかけに接種率が大きく低下しました。いまだに風当たりが強く「危ないワクチン」という認識を持つ方もいます。木下喬弘先生は、米国ハーバード公衆衛生大学院への留学を機に日本のHPVワクチン接種問題に関わる公衆衛生学に関心を持ち、さまざまな取り組みをされています。救急医としてのあゆみ、公衆衛生学に没頭した留学先での経験についてお話を伺いました。

※HPV感染の予防に関する情報発信サイト「みんパピ」はこちらを、新型コロナウイルス感染症やワクチンの情報発信サイト「こびナビ」はこちらをご覧ください。

日本の臨床技術を世界へ―救急医としてのあゆみ

私は元々、救急医として働いていました。2010年に大阪大学医学部を卒業後、大阪急性期・総合医療センターで初期研修を開始し、三次救急(重篤な救急患者さんに高度な医療を提供すること)の現場で患者さんの命を助けることに奮闘していました。

大学卒業以来、一秒一刻を争う救急医療の現場で臨床にどっぷり浸かっていましたが、2017年に外傷初期診療システム「ハイブリットER」に関する論文を執筆したことで転機が訪れます。ハイブリットERは新しい診療システムで、救急患者さんが最初に運び込まれる部屋である救急室(ER)にIVR-CT(血管撮影とCT撮影を同時に1つの台で行える装置)を設置することにより、点滴や人工呼吸器の設置など容態の安定化処置、CT撮影、カテーテル治療などを1つのベッドで一挙に行うことができます。

画期的だったのは、従来のように救急室やCT室、アンギオ室(血管造影室)など、複数の部屋に患者さんを移動させる必要がなく、病院到着から緊急手術を始めるまでの時間が短縮されるという点です。その結果、重症外傷で亡くなる方の割合(入院から28日間のデータ)が22%から15%まで減少しました。この結果について論文を執筆したところ、アメリカの外科学会誌に掲載され、以後、世界的な学会にも呼んでいただくようになり、臨床研究の手応えと面白さを実感したのです。

日本にはハイブリットERのほかにも臨床技術が数多く生まれていますが、論文になることが少なく、世界に周知されていないのが実情です。私の場合は、上司が論文の執筆方法や臨床研究の方法を教えてくれたため論文を執筆することができ、それが名刺代わりとなって多くの機会をいただけるようになりました。幸運だったと思います。

ハイブリッドERの件を契機に「臨床研究の正式なトレーニングを受けて、日本の臨床技術を世界に発信したい」と考えた私は、米国ハーバード公衆衛生大学院への留学を決めました。

「川の上流」たる公衆衛生学との出会い

ハーバード公衆衛生大学院で学ぶなかで印象的だったのが、イチロー・カワチ教授(社会行動科学学部 学部長)の授業で学んだ「公衆衛生はアップストリーム(川の上流)で、救急医療はダウンストリーム(川の下流)である」という考え方です。社会全体の健康を川に例えるとしたら、「川の上流」にはメンタルヘルスや貧困など健康を阻害するさまざまな要因が存在し、健康な生活が送れない方がいる。そしていずれ重い病気やけが(自殺企図による墜落外傷など)などをきっかけに、救命救急センター、ここでいう「川の下流」へと流れ込むということです。つまり、社会全体の健康を増進するためにはまず川の上流にある原因を取り除く必要がある。そのために、公衆衛生・予防医療に取り組まなければいけないということです。

写真:PIXTA

写真:PIXTA

カワチ先生の話を聞いて、自分の臨床経験にも思い当たることがありました。救急医として勤務していたとき、治療で患者さんの命をとりとめても、根本的な解決がされていないために再び同じ状態に至り、同じ患者さんが運ばれてくることがしばしばあったのです。たとえば精神疾患の患者さんでコントロールが不完全な場合、何度も自ら命を断とうと試み、そのたびに救急センターに運び込まれて来ることがありました。もしかしたら救急医であれば一度はこのような経験をしたことがあるかもしれません。一生懸命に患者さんを治療しても、何度も同じように運び込まれて来てしまう。これは、救急医として「川の下流」で闘う虚しさにほかなりません。救急医としての経験があったからこそ、公衆衛生学への関心は大きなものになりました。

日本のHPVワクチン問題は進展したか?―ハーバード大学教授からの問い

HPVとは皮膚や粘膜に感染するウイルスで、子宮頸がんなどの原因となります。子宮頸がん以外にも、外陰がん・腟がん、男性も含めた肛門がんや中咽頭がんの主要な原因となっていることが分かっています。HPVワクチンと子宮頸がん検診がもっとも成功しているオーストラリアでは、2028年には子宮頸がんが撲滅されるといわれ、世界でも公費のワクチン接種が一般的になってきました。

日本においても元々は厚生労働省によりワクチン接種が勧奨されていたのです。ところが2013年の副反応に関するセンセーショナルな報道を機に積極的な接種を差し控える流れとなり、ワクチン接種率は激減。元々70%ほどあったHPVワクチン接種率は、1%未満に低下してしまいました。現在に至るまで接種率が回復しておらず、子宮頸がんがまったく減る見込みがないという、世界的に見ても異常な状況です。

留学当時の私は母国のHPVワクチンの問題を知ってはいましたが、元々は救急医でしたし、日頃から子宮頸がんを診ている専門家ではなかったので、これは果たして自分が携わるべき問題なのかと迷っていました。しかし、あるとき尊敬するマイケル・ライシュ教授から「日本のHPVワクチン問題に進展はありますか?」と問いかけられ、「これは世界が注目している大きな問題なのだ」とあらためて自覚したのです。そして、日本ではHPVワクチンがあることすら知らずに子宮頸がんによって命を失う方がまだまだいるという状況に危機感を覚え、公衆衛生学を学ぶ人間としてこの問題に真剣に取り組まなければならないと思いました。

写真:PIXTA

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医療者が自ら発信する情報で世論を変えたい

HPVワクチン問題解決に向けてまずは日本の現状を網羅的に調べる必要があると考え、同級生と共に日本の医療政策に関する論文を書きました。しかし医療政策の世界では結局のところ、厚生労働省が以前のようにワクチン接種を積極的に推奨するしかないという結論が導かれるだけでした。

17歳未満の方がHPVワクチンを接種すると子宮頸がんの発症を88%予防できるといわれています。その安全性はすでに証明されているのに、日本では「世論のワクチンに対する不信感を払拭できないまま接種を勧奨できない」という厚生労働省の立場があり、その一方でメディアは「厚生労働省が勧奨していないワクチン接種を前向きに報じることはできない」という思いを抱えている。この状態に風穴を開けるには市民の方々、つまり「実際にワクチン接種を受ける人々」に正確な情報を伝え、世論を前向きな方向に動かす必要があると思ったのです。

そのような思いを持って、私たちは医療の専門家である医師、公衆衛生の専門家として、市民の方々を対象に正確な医療情報の発信に努めました。私自身はもともと執筆した論文を紹介するためにTwitterのアカウントを持っていたので、このアカウント上で情報発信をすることに。当初は世の中にあふれる誤った医療情報を指摘するようなつぶやきが多かったのですが、この活動を機に自ら情報発信をするようになり、今では多くの方にご覧いただけるようになりました。2020年には、これらHPVワクチン問題への取り組みが評価され、ハーバード公衆衛生大学院の卒業賞をいただくことができました。

*次のページでは、新型コロナウイルスワクチンの情報発信など現在の活動についてお話を伺います。

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