慢性期の統合失調症の方々への支援においては重要なものはなんでしょうか。脳という物質に還元できない「心」の部分に、どう寄り添えばいいのでしょうか。分子生物学者としての研究と同時に、精神科医としても診療を行う統合失調症研究のフロントランナー、東京都医学総合研究所の糸川昌成先生に、ご自身の経験を科学者の視点からお話しいただきました。
私の父は2015年の4月に食道がんで亡くなりました。医師として患者さんの臨終には何度も立ち会ったことがあります。心停止の瞬間から腐敗が始まる50kgの巨大な蛋白質の塊―それが科学者としてとらえた現象です。
父の最後は心不全でしたが、認知症もあったため、最期の1か月は毎日ひんぱんに私の携帯電話が鳴るようになっていました。とても仕事にならないと思い、毎朝6時半に病院で父を見舞ってから職場に行くことにしました。
2015年3月27日と28日、第10回日本統合失調症学会を会長として主催したことを、父はとても喜んでくれました。私が医師であることを知って、担当の看護師さんが父の病状を記録したチャートを見られるように父の枕元に置いてくれていたのですが、私はそれを毎日チェックしながら、もうそろそろ危ないかなと思い始めていました。しかし、日本統合失調症学会まで父は持ちこたえてくれたのです。
私は3月末をもってプロジェクトリーダーを退任し、4月1日付けで病院等連携研究センター長を拝命しました。辞令交付式の前に父の病室に行くと「お前がそんなに偉くなって嬉しいよ」と言って、父は私の手を拝むように握り、たいへん喜んでくれました。
そして4月9日の朝、父が私の手を握って1時間経っても離さないのです。夜勤の看護婦さんが「糸川さん、ここは私がいますから仕事に行ってください」と替わってくださり、私は病室を後にしました。それが、父の最期でした。2015年4月9日の夜、10時57分に父は亡くなりました。
私はタクシーを飛ばして午前0時少し前に病室に到着しました。今にも目を開けそうな父の禿げ頭に手を当ててみると、まだ温かかったのです。これまで何度も臨終を告げ、何度も死亡診断書を書いたのは、腐敗の始まった蛋白質の塊だったはずなのに。
私は、あれっ、と思いました。この蛋白質の塊は―今朝、痛いほどこの手を握ったのは―もう、親父じゃないのかな、何なのだろう、と。
私は縄文時代の日本人が信じたとされる原始宗教の話を思い出しました。「とこよ(常世)」からやってきた「まれびと(稀人)」が「たま(霊)」をもたらす。その「たま」が人に宿ると命を灯し、亡くなると「たま」に戻って「とこよ」へ還る。「とこよ」は、この次また生まれてくるまでの命のすみかである、とする原始宗教があったというのです。
今朝、私の手を力いっぱい握っていた父には「たま」が宿っていて、今は「たま」がふっと抜けて、そのあたりを漂っているのだな、と思ったのです。これは精神医学的には「解離(かいり)」といいます。父の頭に触れている「自分」が見えている―網膜に映っているのではなく、実体的意識性として、自分を後ろから見ているのが分かるという感覚です。
では、誰が自分を後ろから見ているのか。それはおそらく父なのだろう、と。私は精神科医ですから、解離を起こしているなと思いながら、でも見ているのは父だなと感じたのです。とても宗教的な、そして霊的な体験でした。
すべての葬儀が終わり火葬場へ入って行くと、係員が脱帽し、棺の窓を開いて合掌しました。腐敗の始まった蛋白質の塊に一礼して、何をやっているのだろうと思いました。火葬が終わると骨壷に遺骨を納めるのですが、骨上げ台の上にあるのは炭化したリン酸カルシウムです。どんどん父が物質になっていくのです。
骨片や灰を掃き集めて敬々しく骨壷に納めると、係員はやはり骨壷に手を合わせています。炭化したリン酸カルシウムに手を合わせて、いったい何をやっているのだろう、と思ったその途端、私は理解しました。
実体化したものに手を合わせてはいるけれども、拝んでいる対象は「実体化されなかったもの」だったのです。父が物質として実体化されなかった部分、尊厳や生きた証―科学者としてはこういう言葉は使いたくありませんが、「魂」に対して手を合わせているのです。
私は科学者であり唯物論者ですので、位牌に手を合わせるのは意味のないことだと考えていました。しかし、実体化されたものは、社に納められた石でも、しめ縄をかけた岩でも何でもよくて、そこに実体化できないものを拝んでいるのだということがようやく理解できたのです。
父が生きてきた文脈を理解し、そこに寄り添うこと。実体化できない尊厳や魂に目を向けること。それは慢性期の統合失調症の方に対する治療や支援にも同じことが言えるのです。
糸川 昌成 先生の所属医療機関
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