糸川昌成先生は分子生物学者としての研究と同時に、精神科医としても診療を行う統合失調症研究の第一人者です。東京都医学総合研究所で2015年から病院等連携研究センター長を務めるかたわら、隣接する東京都立松沢病院で現在も非常勤医師として診療を続けておられます。今回は糸川先生が現在重要視されているテーマについてお話をうかがいました。
すべての精神障害は脳の病気なのでしょうか。聖マリアンナ医科大学の古茶大樹先生と松沢病院の針間博彦先生のお二人は、ある論文の中で、病気であるものと病気でないものがあるとおっしゃっています。
ヤスパースとシュナイダーというドイツの有名な学者が、精神障害を階層分類しています。これは正常に近い第1層から、もっとも病理の深い第4層まで4つの階層に分けたものです。
障害の区分
症候群/疾患
生物学的原因
第1層
心のあり方の偏り
神経症など
症候群・疾患ではない
なし
第2層
内因性精神障害
気分障害
症候群
(疾患が内包される)
想定される
第3層
第4層
外因性精神障害
脳腫瘍など
疾患
あり
(図:文献1のヤスパースとシュナイダーの階層分類から一部改変)
文献1:古茶大樹,針間博彦 病の「 種」 と「 類型」,「階層原則, 臨床精神病理 31 : 7-17, 2010
第1層にあるものは、心のあり方の偏りと呼ばれます。たとえば失恋や失業による憂うつは病気ではありません。これは失恋と憂うつな気持ちとの間に「因」と「果」の関係がある、正常な脳の反応だからです。新しい恋人ができれば憂うつはなくなるかもしれません。あるいは友人の慰めや時間経過によっても憂うつは消えるでしょう。このことは脳の生物学的・病理学的変化を伴いません。
では、失恋から非常に長い期間が経過しても、あるいは新しい恋人が出来てもなお憂うつな状態が続いていたとしたらどうでしょう。この場合は、失恋という体験と、現在の憂うつな気持ちとの間に「因」と「果」の関係が成立しません。明らかに神経回路が通常と違う状態にあると考えられます。これは病気といっていいでしょう。
ヤスパースはこれを「生活発展における意味連続性の切断」と呼び、第2層に置きました。因果関係が成立しないうつ状態は病気とみなし、抗うつ薬を服用してもよいとしたのです。
しかし、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)という精神障害の診断マニュアルでは、症状の数が一定以上あればうつ病と言えると規定したため、この第1層と第2層が混同されることになってしまいました。失恋の憂うつに抗うつ薬を投与しても治りません。こうして、薬が効かない「うつ」が大量に出てきてしまったともいえます。
もっとも病理の深い第4層には、がんなどによる精神障害を置きました。脳腫瘍が原因で起こる幻視や、リウマチ性疾患に伴う憂うつなどは病気であるとしたのです。それは、脳腫瘍を取り除けば幻視がなくなり、リウマチ性脳炎に抗炎症剤を投与して炎症が治まれば憂うつがなくなるからです。これらは疾患であり、明らかに脳の生物学的な原因があるのです。
この第4層と、最初に述べた第1層との間に巨大な内因性精神障害というものを置き、内因性障害のより正常に近いものに気分障害を置きました。なぜなら、大うつ病で憂うつなのと、失恋で憂うつな第1層とでは、憂うつという症状の横断面をみただけでは区別がつかないからです。
実際に患者さんから話を聞き、体験と症状の間に「因」と「果」の関係があるかないかを人間学的に判定して因果関係がないと明らかになったとき、第1層ではなく第2層以降にある、すなわち病気であるといえます。ただし、これは症候群であり、明確な疾患としての生物学的な原因は、想定はされるがまだ存在するとは分かっていない―これがヤスパースとシュナイダーの考えでした。
そして巨大な内因性障害の第2層に気分障害を置いて、それ以外のすべてを第3層、すなわち統合失調症としました。これは実に巨大な症候群です。30年間生物学に携わってきた私は、古茶先生と針間先生の論文でこのことを読み、精神病理学の奥深さを知るとともに認識を新たにしました。精神病理学を学ばない生物学は、研究モデルを間違えてしまう危険性をはらんでいるのです。
疾患として症候群を研究し、技術に頼って全ゲノム解析や次世代シークエンサーを駆使して何万人ものデータを集めても未だ答えが見つかっていません。それがなぜなのか、古茶先生と針間先生の論文を読んで目から鱗が落ちる思いでした。これがもうひとつの、私が現在重視しているテーマです。
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