新型コロナの流行が始まり8カ月がたちました。全世界の感染者数は2000万人を越え、死亡者も80万人に迫っています。これだけの感染症の大流行を、私たちは過去100年近く経験していません。しかも原因はこれまで知られていなかった病原体です。今まで感染症の制圧に用いてきたワクチンや治療薬といった先端技術が、この病気には当面の間、使えないのです。現在行われている制圧の方法は、感染者の隔離、検疫、都市封鎖といった古典的な感染症対策になります。
実は、こうした対策は、今から約700年前の14世紀におきたペスト(黒死病)の大流行の際に考案されたものでした。この時の流行は人類を滅亡の危機に陥れるほどの被害を生じさせ、「史上最悪の感染症」だったと考えられています。そこで、今回は14世紀のペスト大流行の模様を紹介しながら、現在の新型コロナ対策や今後の流行の行方を検討してみましょう。
ペストはもともとネズミの間で流行する病気です。病原体のペスト菌はノミが媒介し、このノミがたまたまヒトを刺すと、ヒトが発病します。患者は高熱、リンパ節腫脹、皮下出血などをおこし、やがて全身の臓器が障害されていきます。現代であれば抗菌薬で治療できますが、14世紀には多くの患者が苦しみの果てに死んでいったのです。
ペストの被害が最も大きかったのはヨーロッパです。1347年にイタリアに上陸してからヨーロッパ全域へ急速に拡大し、14世紀末までに3000万人の死亡者が発生しました。イタリアのフィレンツェはとくに被害が大きく、人口の約6割が死亡したとされています。当時、この町には作家のボッカチオが滞在しており、彼の代表作の「デカメロン」にはこの流行模様がリアルに描かれています。
こうした流行の結果、ヨーロッパ全体では人口の約3割が死亡しました。さらに流行はユーラシア大陸全体にも波及し、中東で2000万人、中国でも1000万人以上が死亡したとされています。まさに、人類はこの時、絶滅の危機に瀕したと言ってもいいでしょう。
人類の歴史をみても感染症の大流行は何回かおきています。ペスト、天然痘、コレラ、インフルエンザなど数多くの流行がありましたが、人口が激減するような事態にまで至ったのは14世紀のペストをおいて他にはありません。
これだけ大きな被害が生じた原因について、最近多くの研究結果が発表されています。この時のペスト菌がどこで発生したかについては、当時の遺体から分離されたペスト菌の遺伝子研究により、中国から中央アジアという説が有力です。また、ヨーロッパ上陸後に感染力が急激に増した原因としては、シラミに媒介されたのではないかという説が提唱されています。本来の媒介昆虫であるノミはネズミの流行がないとヒトに感染しませんが、シラミはヒトからヒトに直接感染を拡大させることができるのです。このシラミ媒介の背景には、中世のキリスト教社会にみられた町の汚染や人々の風習などが深く関係しているようです。
では、14世紀のペスト流行を、私たちの祖先はどのように克服していったのでしょうか。当時の人々は、感染症が病原体でおこることを全く知りませんでした。沼地などから湧き上がる悪い空気が原因であるとか、星の位置が原因であるなどさまざまな説が唱えられていましたが、流行が拡大していくと、当時の人々も患者と接することが原因ではないかと考えるようになります。
その結果、家族は患者の介護をやめて放置したり、患者を町はずれに遺棄したりするという措置がとられるようになりました。現代の隔離対策につながる方法がここで実施されたのです。また、イタリアなどでは入港する船が病気を持ち込むという考えから、船を沖合に40日間停泊させ、監視する方法がとられました。もし船内で患者が発生したら上陸は許可されません。これが現代の検疫制度の起源になりました。
このように当時の人々は、周囲で死亡者が急増する極限状態の中、それまでの慈悲やモラルを捨て去り、心を冷徹にすることによって、史上最悪の感染症の流行を克服していったのです。
14世紀のペスト流行時に考案された隔離、検疫、都市封鎖などの対策は、現代の新型コロナ流行でも実施され、一定の効果をあげています。こうした対策は、ワクチンや治療薬などが開発されるまでの時間稼ぎではありますが、未知の病原体の流行を制圧するためには、700年前の対策に頼るしかないのです。
このような対策面だけでなく、筆者は今回の新型コロナ流行にあたり、人々の心理状態が700年前とあまり違わないことを実感しています。たとえば、ヨーロッパではアジア系の人々が暴行を受ける事件が頻発しました。日本でも患者や医療従事者への差別行動が度々おきています。14世紀のペスト流行時にも患者を忌避する行為が頻発しただけでなく、ヨーロッパ各地でユダヤ人への迫害が発生しました。感染症という目に見えぬ敵が流行する中、人々は冷静さを失い、不安の矛先をスケープゴートに向けてしまうのです。
700年前と違い、現代の私たちは新型コロナがどのように流行するかを知っています。もっと冷静な気持ちをもって行動することが必要なのです。
14世紀のペスト流行は多くの人的被害を生じただけでなく、ヨーロッパでは「中世社会を終焉させる」という大きな役回りを演じました。ペスト以外にも大規模な感染症の流行は、社会や文化に多大な影響を与えることが多く、新型コロナの流行も現代社会に多くの変化をおこすことでしょう。
筆者は、グローバル化社会の後退やインターネットを用いた通信技術の発達を予想しています。また、今回の流行でソーシャルデイスタンスという習慣が定着してきましたが、これが流行後の世界で続くことには危機感を感じています。ひきこもりの人や孤独死が、流行前よりも増えるのではないでしょうか。
いずれにしても、新型コロナの流行はワクチンや治療薬の開発により、間もなく終息するはずです。14世紀のペストのような「史上最悪の感染症」になることは決してないでしょう。
本コラムは筆者の新刊「パンデミックを生き抜く~中世ペストに学ぶ新型コロナ対策」(朝日新書)に書かれた内容をまとめたものです。本著では「日本にペストが波及しなかった理由」なども紹介しています。ご興味のある方はぜひ、お読みください。
取材依頼は、お問い合わせフォームからお願いします。
東京医科大学病院 渡航者医療センター 客員教授
1981年に東京慈恵会医科大学卒業後、米国Case Western Reserve大学に留学し熱帯感染症、渡航医学を修得する。帰国後に東京慈恵会医科大学・熱帯医学教室講師を経て、2004年より海外勤務健康管理センターのセンター長。新型インフルエンザやデング熱などの感染症対策事業を運営してきた。2010年7月より現職に着任し、海外勤務者や海外旅行者の診療にあたっている。