2005年4月、JR西日本福知山線で脱線事故が発生しました。乗客と運転士合わせて107人が死亡、549人が負傷した凄惨な事故です。この出来事をきっかけに、被害者のご遺族が抱える悲嘆や苦悩をケアする「グリーフケア」の重要性が浮き彫りになりました。ケアの実践者を育成する公開講座を前身として、2010年には上智大学にグリーフケア研究所が誕生。現在に至るまで、啓発活動や人材育成などに取り組んでいます。研究所所員の伊藤高章先生(上智大学大学院実践宗教学研究科死生学専攻教授)に、今グリーフケアが必要とされている社会的背景について伺いました。
※本記事は、日本慢性期医療協会との連載企画「慢性期ドットコム」によるものです。
「生死」は私たちにとって普遍的なテーマであり、グリーフケアはこれまでも大切なものでしたが、近年その必要性は徐々に高まっているようです。その背景の1つとして、高齢化の進行に伴う「要介護率の上昇=要介護認定者数の増加」を挙げることができます。
近年高齢の夫婦世帯が増加しており、配偶者が亡くなった後、残されたパートナーが要介護になる危険性が高いのです。喪失感から心身や社会性の虚弱(フレイル)となり、そこから要介護の状態に陥ってしまうことがあります。残された方が喪失感にのみ込まれないよう適切なグリーフケアを行い、亡くなったパートナーとの思い出を大切にしながらご自身の人生を元気な状態で全うできるよう支援するグリーフケの必要性が高まりました。
新型コロナも、死との向き合い方に影響を与えています。たとえば、家族が亡くなるときに立ち会えない、ご遺体と向き合う時間を取れない、あるいは感染者の急増により病床が逼迫し、十分なケアが受けられずに亡くなった方のご家族の苦悩など、コロナ禍に特徴的なグリーフがあると思います。
どなたにも必ず死は訪れますが、コロナ禍や東日本大震災などの災害、あるいは事故や事件などによって大切な存在を失ったとき、人は不条理を感じるでしょう。「なぜ自分より先に逝ってしまったのか」「なぜ自分だけが生き残ったのか」「あの時何かできたのではないか」――それは自分の置かれた状況や社会、神、あるいは自分自身に向けられた怒りにも似た感情です。誰にとっても“当然の死”などありません。
大人になると、こういった感情を隠しがちですが、何かを許せない気持ちや後悔、不条理な状況に対する怒りや悲しみを全て隠す必要はありません。グリーフケアでは、語りを通じて整理するお手伝いをします。さまざまな気持ちを「胸のポケットにいつでも大切にしまっておく」ことができるよう、そして、人生の折々にその気持ちをポケットからそっと取り出して振り返ることができたらよいと考えています。
写真:PIXTA
上智大学グリーフケア研究所は、日本初のグリーフケア専門の研究・教育機関として2009年に設立されました。研究所の前身は、2005年JR西日本・福知山線脱線事故がきっかけで発足した公開講座・人材養成講座です。事故被害者のご遺族などに対してグリーフケアを実践する専門人材を育成するべく講座が開設され、2009年に尼崎市の聖トマス大学に研究所が開かれました。その後、2010年に上智大学へ移管されたという経緯があります。
設立から10年以上が経過。現在グリーフケア研究所では、グリーフケア・スピリチュアルケアに関する紀要刊行、グリーフケアの人材育成(東京四谷キャンパス、大阪サテライトキャンパス)、グリーフケアに関する理解を深めるための公開講座、講演会やシンポジウムの開催、他大学との連携など、多岐にわたる活動を行っています。また、2016年には上智大学大学院 実践宗教学研究科死生学専攻が設置されました。
グリーフケア人材育成講座を受講されている方の3分の1ほどは現役の看護師です。それから医療・福祉・介護・教育・心理などの分野で働いている方が3分の1ほどで、残りの3分の1ほどはジャーナリストや行政関係者、主婦(夫)など、さまざまなバックグラウンドをお持ちの方がいます。
受講生の半分ほどは、自分自身が何らかの喪失を経験されています。お子さんや配偶者など大切な人が亡くなった方もおられます。自死のご遺族もいらっしゃいます。ご自身が本当につらい経験をされたときに誰かにそばにいて話を聴いてもらいたかった、あるいは十分なグリーフケアを受けられなかった経験から、自らが学ぼうと考えた方々です。
写真:PIXTA
同じような経験をした人々が集まり支え合う自助グループや当事者の会、というものがあります。このような活動において意識していただきたい大切なことがあります。それは、「その人の経験はその人だけのもの」という前提を忘れないことです。
当事者同士が集まって話をするとき、語り手や聴き手は互いに共通点や似たような経験を無意識に探します。それは相手に親近感を持とうとするゆえの思考回路ですが、少し注意が必要です。なぜなら「私も」という聴き手の姿勢は、語り手の世界を侵してしまう可能性があるからです。一方、語り手は自身のグリーフを理解してもらおうと周囲との共通点を探して話すことがありますが、無理に共通点を探す必要はありません。たとえ条件が同じでも人それぞれ感じることは違います。どんなに共通点があっても、一人ひとりの経験はその人だけのものです。
ですから「この人は自分と似たような経験をしているけれど、その味わいは私と同じではない」という前提を忘れずに、自らの経験を語り、そして誰かの経験を聴いてみてください。この前提を忘れてしまうと、当事者のグループは徐々に細分化していきます。たとえば家族を亡くした当事者同士なら、それが親なのか、子どもなのか、配偶者なのか。さらには子どもなら何歳頃だったのか、配偶者なら夫か妻か、というふうにどんどん細分化してしまいます。
経験の共通点が重要なのではありません。一人ひとりの経験の独自性を忘れなければ、語り手の世界を侵さずにその方のグリーフに寄り添うことができるはずです。共感とは、相手と自分の思いの微妙な差異を大切に味わうことです。
私は米国でチャプレン(教会以外の施設で働く聖職者)になるトレーニングを受け、患者さんの話を聴く仕事をしていました。日本にはそういう仕組みがないことに気付き、悲嘆や苦悩を抱える人に寄り添うグリーフケア・スピリチュアルケアがもっと日本に必要だと考えて、日本での活動を始めました。
福知山線の脱線事故をきっかけに日本でもグリーフケアの必要性が認知され始め、今では上智大学に大学院もできました。また、2007年には日本スピリチュアルケア学会の活動も始まり、少しずつ日本におけるグリーフケア・スピリチュアルケアの重要性への認知が高まっていることを感じます。来年定年退職なので、これからの時間をグリーフケア・スピリチュアルケアの臨床でのはたらきを深めながら、認知を高める活動に尽くしたいと考えています。
次のページでは、グリーフケアにおける「語り」の重要性についてお伝えします。
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