川崎幸病院副院長・川崎心臓病センター長 高梨秀一郎先生
心臓の出口にある大動脈弁は、全身へ血液を送り出す要となる存在だ。この弁が狭くなったり、うまく閉じなくなったりする大動脈弁狭窄症や閉鎖不全症は、放置すれば心不全へと進行し、命に関わる事態を招く。
治療法として広く知られているのは人工弁への置換やカテーテル治療だが、活動量の多い世代にとっては、生涯続く服薬や将来的な再手術への不安も小さくない。
そうしたなか、自分自身の肺動脈弁を大動脈弁として移植する「Ross(ロス)手術」(以下、Ross手術)という選択肢がある。実施できる施設は限られるものの、条件が合えば、その後の生活を見据えた治療として検討されることがある。
この手術について、川崎幸病院副院長・川崎心臓病センター長の高梨 秀一郎(たかなし しゅういちろう)先生に話を聞いた。
大動脈弁の病気には大きく分けて、何らかの理由で弁の開きが悪くなる大動脈弁狭窄症(以下、狭窄症)と、弁が閉じきらずに血液が逆流してしまう大動脈弁閉鎖不全症(以下、閉鎖不全症)があります。
狭窄症では血液を押し出そうとしても出口が塞がれているため、心臓は強い圧を受け続けます。その結果、心臓の壁は厚くなり、次第に硬くなっていきます。
一方、閉鎖不全症では、送り出した血液が戻ってくるため、心臓が薄く引き伸ばされるようになります。
いずれの場合も、心臓は懸命にはたらき続けますが、あるところで限界を迎え、心不全という状態に至ります。問題は、その過程がとても静かに進むことです。狭窄症にしても閉鎖不全症にしても、多くの患者さんが「自覚症状はなかった」とおっしゃいます。
しかし、患者さんのお話を詳しく聞いていくと、体はすでに変化に気づき、無意識のうちに行動を変えていることが少なくありません。
たとえば、以前は駅の階段を一段飛ばしで上がっていたのに、最近は自然と一段ずつになっている。重い荷物を持つ場面で、誰かに任せることが増えている。息切れを感じないように、知らず知らずのうちにペースを落としている。
このような変化は、ご本人の中では「少し歳を重ねたからだろう」「年齢的に疲れやすくなっただけだろう」と片づけてしまいがちです。しかし、実はこれらは心臓への負担が原因であることも多いのです。
上記のような症状が続く場合は、心臓が悲鳴を上げているサインかもしれません。まずはかかりつけ医や循環器内科で相談して、心エコーなどで弁の状態を確認してもらうことが大切です。
また、特に狭窄症では失神や胸の痛みが現れることがあります。突然このような状況になったら、その後さらに重い事態につながる可能性があるため、見過ごしてはいけません。意識が遠のいたり、胸の痛みが続いたり、冷や汗や息苦しさを伴うようなら、我慢せずに救急車を呼んでください。
狭窄症や閉鎖不全症にかかってしまったら、まずは薬での治療を希望される方が多いかと思います。
しかし、薬は心臓の負担を一時的に和らげることはできても、壊れた弁そのものを治すことはできません。根本的に治すには、カテーテルを使って元の弁の上に新しい弁を重ねるTAVI(タビ)というカテーテル治療を行う、外科手術で病変を取り除く、といった選択肢があります。
カテーテル治療は傷が小さく済みますが、もともとの石灰化した弁は残るため、数年後に再び治療が必要になる可能性も否定できません。一方で外科手術は、石化した弁を取り除いて新しい弁に置き換える方法です。
ただ、ここで問題になるのが、どのような弁に置き換えるかという点です。現在、置換する弁には主に機械弁(金属・カーボン製)と生体弁(牛・豚などの生体組織製)の2種類があり、年齢や体の状態によって向き不向きがあります。
機械弁の場合、一生血を固まりにくくする薬を飲み続けることになります。また生体弁は、10年から15年ほどで傷んでしまうリスクがあります。特に50歳代や60歳代といった、まだまだ仕事も趣味も全力で楽しみたい世代にとっては、非常に悩ましい選択となります。
ここで知っておいていただきたいのが、ご自身の肺動脈弁を大動脈弁の位置に移し替える「Ross手術」で、いわば心臓の中での自家移植といもいうべき方法です。
自分の生きている組織を使うので、人工弁のように血液を固まりにくくする薬を一生飲み続ける必要がありません。薬による食事制限や出血のリスクを気にせず過ごせるようになります。
この手術をおすすめできるのは、「もとからある大動脈弁を使い続けたいけれど、傷みが強くなっている」という状況の方です。従来ならここで「人工弁や生体弁に取り換えましょう」と言われていたケースが多いでしょう。しかしRoss手術なら、「自分の生きている別の弁(肺動脈弁)」に置き換えることで、人工物ではない自分の組織を使い続ける道が開けます。
具体的には、50歳代から60歳代前半の活動的な世代や、激しいスポーツを楽しみたい方、将来の妊娠・出産を希望される女性にとって非常に大きなメリットがあります。
また、Ross手術は小児科領域で発展してきた背景があり、お子さんの場合は「体の成長に合わせて弁も一緒に育ってくれる」という、人工弁には不可能な恩恵も受けられます。生まれつき弁の付け根が小さく、既製品の人工弁が合わない方にとっても、自分の組織を活用するこの術式は非常に有効な選択肢となります。
なお、肺動脈弁はもともと圧の低い肺という場所にある弁です。その肺動脈弁を圧が強い大動脈に移して大丈夫なのかというと、結論から言えば多くの方にとって問題はありません。
実は肺動脈弁と大動脈弁は、同じルーツを持つ兄弟のような存在です。そのため、移植された後に、時間はかかりますが徐々にその環境に適応して厚みを増し、強くなっていく特性を持っています。生きている組織だからこそ、15年で寿命が来るといった心配も基本的にはありません。
肺動脈弁があった場所には代わりに生体弁を入れますが、この場所は血流の圧力が大動脈の数分の一と非常に低いため、弁への負担が少なく済み、生涯使い続けられるほど長持ちする方もいらっしゃいます。将来的に交換が必要になったとしても、今はカテーテルで新しい静脈弁を置く治療も普及しており、過度に恐れる必要はないといえるでしょう。
もちろん、この手術は非常に繊細な技術を要します。心臓を止めている時間も大動脈弁置換より長くなりますが、退院までの期間は他の心臓手術と大きく変わりません。
術後は、心臓リハビリを行いながら回復を目指します。特に大切なのは最初の1年です。移植された弁が新しい環境に慣れていく時期なので、血圧を抑えめに管理し、定期的に状態を確認します。
この1年を乗り越えれば、多くの方が定期的なチェックだけで普通の方と変わらない生活が送れるようになります。
以前担当した患者さんで、術後に「また山登りができるようになった」と嬉しそうに報告してくださった方がいました。心臓を治すことはゴールではなく、あくまで通過点に過ぎません。その先にある、今まであきらめていた楽しみを取り戻すことこそが、私たち医療者が目指す本当の治療です。
なお、Ross手術の費用は保険診療の範囲で行われ、高額療養費制度の対象になります。手術が2つの弁に及ぶため請求額は上がりますが、患者さんの自己負担が極端に増えることはありません。
ただし、Ross手術はすべての方が受けられる手術というわけではありませんし、万能な手術というわけでもありません。
Ross手術を希望される際は、事前に主治医の先生とよく相談し、納得して受けていただくことをおすすめします。
現在、大動脈弁置換術やTAVIが併せて年間2万件前後実施されていますが、Ross手術は日本国内で年間100件ほどとまだ少ない状況です(2023年時点)。
これは、1つには外科医にとって大動脈弁の形成手術を含め、経験の積み重ねが必要だからでしょう。また麻酔科や看護、リハビリを含めたチーム全体の高度な連携が不可欠であることも、Ross手術を始めるにあたってのハードルを高めていると考えています。
しかしRoss手術は海外のガイドラインでは、活動的な現役世代にとっての推奨度が上がっています。日本でもこれからもっと選択肢として広がっていくのではないでしょうか。
もし、大動脈弁の病気だといわれて「もう無理はできない」と肩を落としているなら、一度立ち止まって考えてみてください。治療法は1つではありませんし、ご自身の年齢や将来のライフスタイルに合わせて選ぶ権利があります。Ross手術は全ての方に最適な万能の治療ではありませんが、アクティブな人生をあきらめたくない方にとっては、非常に力強い味方になるはずです。大切なのは、自分にとって何が一番幸せな選択なのかを、納得いくまで話し合うことではないでしょうか。私たちはその選択肢を、全力で支えていきたいと思っています。
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