澤 芳樹先生
重症心不全に対する新たな選択肢として、iPS細胞由来心筋シート「リハート」がいよいよ実用化の段階を迎えた。2026年3月に厚生労働省より、「条件・期限付き承認」を受けたのだ。
長年心臓外科の最前線に立ち続けリハートの開発を主導した、大阪大学大学院医学系研究科名誉教授であり大阪けいさつ病院 総長の澤 芳樹(さわ よしき)先生に、この製品が重症心不全を抱える患者の日常をどう変えるのか詳しく伺った。
心不全という病気は、単に心臓の動きが悪くなるだけではありません。階段を上るだけで激しい息切れがしたり、体がだるくて外出もままならなくなったりと、生活の質が著しく低下してしまう、いわば「動けなくなる病気」です。
私たちはこれまで、心臓カテーテル治療であるPCIや外科的なバイパス手術など、血流を改善させるためのさまざまな方法で患者さんを治療してきました。さらに最近では「ファンタスティック・フォー」などと呼ばれる新しい標準薬物治療*も普及しています。
しかし、そうした手段を講じても、十分な改善が得られない患者さんが一定数いらっしゃいます。補助人工心臓や心臓移植という選択肢もありますが、適応やドナーの問題などから、全ての患者さんが受けられるわけではありません。既存の治療だけでは十分に救いきれない、いわゆるアンメット・メディカル・ニーズ――「既存の治療法では救いきれない領域」が、心臓病の分野には依然として存在しているのです。
*ファンタスティック・フォー:アンジオテンシン受容体ネプリライシン阻害薬、β遮断薬、ミネラルコルチコイド受容体拮抗薬、SGLT2阻害薬のこと。これらを患者によって適切に組み合わせることが心不全の標準的な薬物治療となっている。
かつて私は、患者さん自身の足の筋肉から細胞を採り、それをシート状にして心臓に貼るという治療技術の開発に取り組んでいました。
しかし、患者さん自身の細胞を用いる方法では、年齢や病状によって細胞の性質にばらつきが生じやすく、安定した治療効果を得るための調整が課題となっていました。また、細胞を採ってから培養して製品にするまでには数週間の時間が必要で、重症の患者さんの元へすぐに届けることが難しいという課題もありました。
そこで新たに開発に取り組んだのが、他人のiPS細胞(多能性幹細胞)から作られた心筋細胞を用いる治療技術です。この技術ではあらかじめ確保した高品質なiPS細胞を原料にするので、細胞の質を標準化し、品質を均一化しやすくして提供することが可能となり、このたび承認された心筋シート「リハート」につながりました。
リハートは事前に病院で確保しておけるため、多くの患者さんに対し、それぞれが治療を必要としたタイミングで速やかに使用することができます。このレディメイドのような利便性が、再生医療を広く普及させるための大きな鍵になると確信しています。
リハートがどのように患者さんの心不全を改善させるのか、説明しましょう。
心筋梗塞(しんきんこうそく)などの影響で血流が不足すると、心臓の筋肉に血液が届かないため、十分にはたらけなくなった「冬眠心筋(ハイバネーション心筋)」が増えていきます。こうなってしまうと、PCIやバイパス手術で太い血管の血流が再開できたとしても心筋の隅々まで十分な血流が届かないケースがあり、その結果、心臓のはたらきが徐々に低下してしまうことが多いのです。
リハートは、iPS細胞から作成した心筋細胞シートを心臓の表面に貼付することで血流環境の改善を促します。具体的には、シートの細胞から血管新生を助けるさまざまな因子が放出されることで、血流不足に陥っていた心筋が支えられ、心機能や運動耐容能の改善につながるという、「パラクライン効果」と呼ばれる現象を利用して患者さんの心不全を改善するのです。
よく「貼った細胞は一生心臓に残るのですか」と聞かれますが、貼り付けた細胞そのものが永続的に心臓へ置き換わるわけではなく、数か月もすれば役目を終えた細胞は自然と消えていきます。しかし、細胞がいなくなった後も、一度改善した血流環境や心臓の機能は維持される傾向にあります。
無理に他人の細胞を居座らせるのではなく、あくまで自分の心臓が本来持っていた予備力を引き出す手助けをする。こうしたアプローチで、体にとって負担の少ない心不全の治療を行うのがリハートです。
次に、リハートはどの程度の効果があるかをお伝えします。承認前に行った治験では、患者さんの日常生活に大きな変化がみられました。治験に参加された8名の重症心不全の患者さんは現在、皆さん社会生活を送っています。また、8名のうち6名がサラリーマンとして会社への復帰を果たされました。
治験のデータで見ると、1分間に体重1kgあたり摂取できる最大酸素量(Peak VO2)などの、運動に耐えられる体力指数が向上しています。しかし、数字以上に大切なのは、「息切れを気にせず外出できるようになった」という患者さんの実感ではないでしょうか。8名の方々は社会復帰を果たしただけでなく、趣味を楽しまれている方も多く、80歳になられた方は今、元気にゴルフを楽しんでいらっしゃるそうです。
薬ですから、全ての方に効果があるとはいえませんが、少し動くだけで息が切れていた方々がリハートによって社会復帰を果たされ、生活を謳歌している方がいらっしゃるのは、医師として何よりの喜びです。
ただ、今回リハートが受けた条件・期限付き承認について、不安を感じている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし私は、この制度を決して「不十分な状態で認めるための仕組み」だとは考えていません。むしろ、命に関わる病気と向き合う患者さんへ再生医療をできるだけ早く届けるために国が整備した制度だと捉えています。
従来の医薬品開発では、膨大な症例数を集めるために長い年月が必要になります。しかし、その間にも治療を待っている患者さんがいらっしゃいます。この制度は、有効性が推定された段階で承認し、市販後の調査を通じてさらに検証を重ねていくことで、患者さんへ治療を届けながら安全性や有効性を確認していこうという考え方に基づいています。
つまりこれは、医療の進歩を止めることなく、同時に患者さんの安全もしっかり守るための道筋なのです。私たちは承認後も7年間の期限の中で市販後の調査を行い、安全性を確認しながらさらなる検証を続けていきます。その過程で一つひとつの症例を丁寧に見守り、信頼に足るデータを積み重ねていくことで、この治療をより確かなものへと育てていくことができるでしょう。
また、心筋シートのような新しい医療技術が登場したときに多くの方が懸念するのは、「一部の限られた人しか受けられないのではないか」という点ではないでしょうか。
もちろん、新しい再生医療ですから、決して安価な治療になるわけではありません。現時点では薬価もまだ決まっていません(2026年5月時点)が、一定の医療費がかかることは避けられないと思います。ただ、私はこの治療を、一部の限られた人だけが受けられる医療にはしたくありません。どれだけ医療として価値のある技術でも、経済的な理由で届かないのであれば、医療として社会に十分貢献したとは言えないからです。
だからこそ、保険診療という枠組みの中で、できるだけ多くの患者さんに届けられる形を目指したいと思っています。そのためにも、まずは今の制度の中で実績を積み、リハートが標準的な治療として認められるための土壌を整える必要があります。社会的な仕組みをしっかりと構築し、経済的な理由で治療を諦める人が出ないようにすること。それが、研究者としてだけでなく、公衆衛生にも責任を持つ医師としての私の使命だと考えています。特別な医療を、少しずつ“あたりまえの医療”へ変えていく――そのための歩みは、まだ始まったばかりです。
心臓の病気を抱えている患者さんやご家族の方は、日々大きな不安の中にいらっしゃることでしょう。
しかし、今の医学は着実に進化しています。これまでは「もう打つ手がない」と言われていた重症の方であっても、心筋シートという新たな道が開かれつつあります。それが決して夢物語でないことは、実際に会社に戻ったり、ゴルフコースを回ってたりしている先輩患者さんがいらしゃっることからもと思います。
だからこそ私たちは、期待だけを先行させるのではなく、一つひとつ丁寧に検証を積み重ねながら、この治療を育てていかなければなりません。
私が大切にしているのは、研究者としての冷静な分析と、目の前の患者さんを救いたいと願う臨床医としての思い、その両方を持ち続けることです。
一歩ずつ地に足をつけてデータを積み重ねながら、患者さんに「諦めなくてよいですよ」と心から言える選択肢を、これからも少しずつ増やしていきたいと思っています。
取材依頼は、お問い合わせフォームからお願いします。