埼玉県立病院機構理事長 岩中督先生(埼玉県立病院機構ご提供)
埼玉県は人口が多い一方で、医師や看護師が不足している県だ。地域によっては医療提供体制の維持が極めて困難になりつつあり、特に高齢化が加速する県北部や秩父などでは、救急や入院医療の支え手をどう確保するかが喫緊の課題だ。
こうした厳しい環境下で循環器・呼吸器病センター(熊谷市)、がんセンター(伊奈町)、小児医療センター(さいたま市中央区)、精神医療センター(伊奈町)の4つの県立病院を擁する埼玉県立病院機構は、単なる収支改善だけでは測れない「政策医療」という重責を担いながら、県民の安心を守るための抜本的な改革を進めている。
埼玉県の医療が直面する現実と、同機構の未来に向けた挑戦について、理事長である岩中 督(いわなか ただし)先生に話を伺った。
埼玉県は東京都のすぐ隣に位置していますが、医療の現場から見ると非常に厳しい現実に直面しています。人口そのものは非常に多い一方で、人口あたりの医師数は全国で最下位(2022年時点)いう不名誉な状況に甘んじているのです。看護師についても、残念ながら全国で一番少ない(2024年時点)のが現状です。
この問題の背景には、首都圏特有の構造があります。
埼玉だけでなく千葉や神奈川も同様ですが、医師をはじめとする大切な医療資源が全て東京に吸い寄せられてしまっているのです。確かに東京都に医療を支えてもらっている側面があるのは事実ですが、県内に住む方にとっては自宅近くで頼りになる医療体制があったほうがよいはずです。
さらに詳しく見ていくと、県内でも地域によって大きな差があります。埼玉県は圏央道を境に医療の景色がガラリと変わり、その外側にある秩父や県北部、利根といった地域では人口減少が止まらず、猛烈なスピードで高齢化が進んでいます。
驚かれるかもしれませんが、この3つの保健医療圏には一般病床で500床を超えるような大きな病院は1つも存在していません。命に関わる重篤な患者さんを受け入れる3次救急の体制も徐々に脆弱(ぜいじゃく)になっており、これから増え続ける高齢者の皆さんの命をどう守るのか、私たちは待ったなしの状況にあります。
この状況のなか、埼玉県立病院機構の役割は、医療体制を維持し、充実させることにあります。
振り返ると、私が病院事業管理者として県立病院を担当し始めたのは9年前の2017年のことです。当時、4つの病院の現状を目の当たりにしてすぐに感じたのは、急速に進む医療従事者不足などの問題に早急に取り組まなければ、埼玉の医療は立ち行かなくなるという強い危機感でした。
そこでまず着手したのが、地方独立行政法人への移行です。
一般的に独法化と聞くと、経営難を打破するための効率化が目的だと思われがちですが、私の狙いはまったく別にありました。それは、何よりもまず医療従事者を増やすことです。
当時の県立病院は県の直轄組織だったため、予算や定数などのルールに縛られて、必要な場所に人を配置したくてもできないというジレンマがありました。適切な医療を提供するためには、一度県の組織から独立し、しっかりと人材を確保できる自由な基盤を作る必要があったのです。
ただ、このように組織を大きく変えるとき、現場で働く仲間たちの不安は計り知れないものがあります。特に当時は「経営優先になり、待遇が悪くなるのではないか」という懸念が広がっていました。
そこで私は彼らの不安を少しでも解消したいと考え、延べ33回3,700人以上の職員と膝を突き合わせて意見交換を行いました。
その場では独法化のメリットだけでなく、大変になる部分も包み隠さずお話ししました。また、現場の声を反映させるためのチームを作り、みんなが納得感を持って新しい組織へ移れるよう心を砕きました。その甲斐あってほぼ全ての職員が公務員から独法へと籍を移してくれたことは、今の私たちの大きな力になっています。
こうした改革によって私たちが手に入れたのは、柔軟な人事制度という武器でした。
実は、以前の給与規定では、ベテラン医師が役職につくと手当が減り、若手より給料が低くなってしまうというおかしな逆転現象が起きていたのです。これではモチベーションも上がりませんし、新しい人材を呼ぶことも難しいですよね。
そこで専門医の資格に応じた年俸制を導入するなど、医師が納得して働ける環境を整えました。その結果、独法化前は309人だった医師数が、今では407人まで増えています。薬剤師や看護師も大幅に増やすことができ、ようやく地域支援などの幅広い業務に手が回るようになりました。
こうして体制を整えてきた埼玉県立病院機構には、大きく2つの役割があると考えています。
1つは、民間病院では敬遠されがちな周産期医療や小児救急、精神医療といった不採算な政策医療を確実に提供することです。また、私たちはがんや循環器の専門的な医療も担っていますが、これには非常に多額の設備投資が必要であるため、民間病院としては踏み込みにくいものがあります。こういった医療機器への投資を行い、県民の皆さんのために新しい医療を提供することも私たちの使命だと考えています。
そしてもう1つ、私たちが非常に重きを置いているのが「地域の医療体制そのものを維持する」という公的な役割です。
「地域の医療体制を維持する」ための具体的な取り組みの1つが、県北部の循環器・呼吸器病センターでの改革です。
このエリアでは、高齢者の方が急な発熱や脱水症状を起こした際、受け入れてくれる病院が足りないという切実な問題がありました。本来であれば地域の民間病院が担うべき役割かもしれませんが、他に病院がないのであれば、私たちがやるしかありません。そこで同センターでは2025年末に、3次医療機関でありながら、地域の2次救急を担当するため救急の届け出を行い、高齢者救急専門の病棟を開設しました。
2026年4月からは総合内科の医師を10人体制まで増やし、3つの保健医療圏にまたがる約50万人規模の人口をカバーする高齢者救急の柱となるべく準備を進めているところです(2026年3月現在)。
地域の医療体制を守るためのもう1つの大切な柱が、病院の外へ向けたアクションです。私たちは、病院の中で待っているだけではありません。
秩父や県北部では、クリニックの医師の3割がすでに70歳を超えており、このままでは後継者不足から地域医療が消滅しかねない危機にあります。この問題を解決するために行っているのが、各県立病院から医師を積極的に地域の医療機関へ派遣することです。
たとえば循環器・呼吸器病センターの医師を秩父の村や各地のクリニックへ毎週送り出したり、小児医療センターの小児科の若手医師を夜間救急の現場へ派遣したりしています。その数は2病院合わせて年間で延べ600件を超えており、毎日のように私たちの職員がどこかの地域で医療を提供して現場を支えている状況です。
私たちは今後も地域の医療機関を支えるハブとなり、埼玉県内に医療の空白地帯を作らない取り組みを続けていくつもりです。
もちろん、こうした活動を維持するためには経営の努力も欠かせません。共同購入によって年間2億円を超えるコストを削減したほか、AIを活用した業務効率化など、地道な積み重ねが医療を続けていくための土台になると確信しています。
また、忘れてはならないのは、自分たちは利益を上げることが主目的ではない、という点です。
たとえばがんセンターが人間ドックを大々的に始めたり、新しい放射線治療装置などを前面に押し出して近隣の患者さんに告知をしたりすれば、収益を上げることは可能でしょう。しかし、それでは地域の他の医療機関の経営を圧迫してしまいます。
そこで私たちは常に医師会や地域の皆さんと対話を重ね、お互いに「ウィン・ウィン」の関係でいられるよう細心の注意を払っています。
今後の大きな課題は、避けられない人口減少への対応です。たとえば、小児医療センターが開設された1983年当時は、県内の出生数は年間約7万人でした。しかし、2025年の出生数は4万人程度まで減っています。社会の変化並びに地域の医療体制に合わせて病院の病床数などを戦略的に考えていく必要がありますが、その際も決して医療の質を落とさないことが、私に課せられた挑戦だと考えています。
埼玉県が直面する医療の課題を解決するための、医療の質を落とさないためのアプローチとして今できること。それは2つあります。
1つは、地域に根ざす医師の育成です。現在、埼玉医科大学や獨協医科大学には埼玉県地域枠があります。彼らが大学を卒業した後、若手医師を県立病院で育て、将来的に無医地区になりかねない地域へ派遣し、定住してもらう。これは非常に息の長い取り組みですが、その地域に愛着を持って医療を続けてくれる医師を1人でも多く増やすことは私たちの次なる大きな目標です。
もう1つは健康増進や予防医療への取り組みです。各病院での市民公開講座や小学校でのがん教育、公民館での「いきいき健康塾」などを通じて、県民の皆さんが正しい知識を持ち、健康を守るお手伝いをしていきたいと思っています。
独法化を経て、私たちの職員の間には「自分たちの力で地域を守るのだ」という意識が確実に強くなってきました。
私たちは県民の皆さんのための「最後の砦」です。地域の医療機関と手を取り合い、困っている場所があればどこへでも駆けつける。そんな頼もしい存在であり続けられるよう、これからも職員一丸となって、埼玉の医療をよりよいものにしていこうと考えています。
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