連載地域医療の現在と未来

久留米はなぜ“医者の街”と呼ばれるようになったのか

公開日

2025年10月16日

更新日

2025年10月16日

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2025年10月16日

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久留米大学理事長 永田見生先生(写真提供:久留米大学)

福岡県久留米市は、“医者の街”と呼ばれるほど医師の数が多い。日本医師会の地域医療情報システムによると、人口10万人あたりの医師の数は約600人(2020年時点)。全国平均では約300人のため、約2倍という圧倒的な医師数となっている。その理由としては、医学部を擁し2028年に建学100周年を迎える久留米大学が同市にあることが大きい。

医者の街となった歴史的な経緯と、その過程で久留米大学が地域医療に果たしてきた役割について、久留米大学理事長であり医師でもある永田 見生(ながた けんせい)先生に伺った。

久留米の医療は陸軍病院や九州医学専門学校によって発展した

久留米は医療機関の数が多い街です。たとえば久留米市で救急車での搬送を受け入れている二次救急病院は13施設であり、人口30万人の市としてはとても多くなっています。福岡県で唯一の高度救命救急センターも久留米にあります。医療機関が多いということは、医師が多いということでもあります。こういった医療機関の多さには歴史的な経緯があるのではないでしょうか。

久留米は江戸時代から医学が進んでいました。日本で初めて種痘(天然痘の予防接種)を行った緒方春朔、箱館戦争で敵も味方も治療した箱館病院の院長だった高松凌雲は久留米藩出身です。また、1863年(文久3年)には久留米出身の幕末の志士、真木和泉守らが久留米藩の医学校(医学館)を設立しています。

1877年(明治10年)に西南戦争が始まると、久留米には政府軍の後方拠点が置かれました。政府軍の負傷者が数多く運ばれてきて、医学館を受け継ぐ施設や地域の寺院で治療を受けたそうです。その中には、東京の乃木坂などに名前を遺す乃木希典も含まれていました。

西南戦争の後、多くの傷病者を助けられる中核的な病院の設立が急務であるとされ、1889年(明治22年)には公立久留米病院が開院しました。さらに軍部の方針により、1897年(明治30年)には久留米衛戍病院(後の陸軍病院、現久留米大学医療センター)が設立されます。陸軍病院では軍の威信にかけて、高度な医療技術の提供と効率的な診療が行われました。1928年(昭和3年)には、九州医学専門学校が創設。同時に公立久留米病院が移管され、九州医学専門学校附属病院となりました。

こういった歴史から、久留米には医学教育を重視し、医療の質を確保しようとする気風が自然と生まれてきたのでしょう。九州医学専門学校は1946年(昭和21年)に久留米医科大学となり、1950年(昭和25年)には複数の学部・学科を持つ久留米大学となりました。

優れた臨床医の育成により久留米の医療体制が充実

明治時代から昭和初期まで、医師になるには「大学」と「医学専門学校」の2つの道がありました。
大学は研究を中心とする医学者の育成、医学専門学校は診療所で患者さんを診療する臨床医の育成と方向性が異なっており、久留米大学は後者にルーツを持ちます。そのため、久留米大学は一貫して地域医療に貢献できる高度な医療知識を持った臨床医を育てる方針を持ち続けてきました。そういった歴史的な経緯もあって、現在でも開業医のお子さんが入学し、卒業後に実家を継ぐケースが多くなっています。

ただし、研究を軽視している訳ではありません。たとえば、遺伝や環境が人間の健康にどのように影響を及ぼすかを研究するバイオ統計センターを設置して新たな医療の開発につながる研究を積極的に進めていることは、久留米大学が研究も重視している一面を表しているといえるでしょう。また、戦後の早い段階から世界保健機関(WHO)の事務局長を務めた中嶋宏先生の指導により英語での論文作成を奨励してきており、世界に通用する研究者の育成も行ってきました。

「常に仁なり」の精神を胸に臨床・研究に邁進する

久留米大学で学んだ医師には、2つの特徴があると思っています。1つは思いやりのある医療を行うこと。もう1つは互いに助けあい、地域の医療に貢献する気持ちが強いことです。

思いやりについては、「国手(こくしゅ)の矜持(ほこり)は常に仁(じん)なり」という建学の精神が久留米大学にはあります。これは前身である九州医学専門学校の校歌の一節で、柳川出身の北原白秋が作詞したものです。今の言葉に直すと「優れた医師の矜持とは、分け隔てなく人を思いやることである」という意味で、学生時代にこの言葉に接した卒業生たちはこの精神を胸に、真摯な気持ちで日々の診療や研究に向き合っています。

また、OB・OGが互いに助けあう気風は、少子高齢化がますます進むなか、非常に重要なポイントです。久留米市周辺には、地元出身で久留米大学を卒業した医師が数多くいます。お互いに見知った顔なので、地域で病診連携(病院とクリニック・かかりつけ医との連携)や病病連携(病院同士の連携)をとる際にも、スムーズに意思の疎通ができています。勉強会や報告会なども頻繁に開催され、お互いに切磋琢磨して医療の質を高め合う関係性です。

それが影響しているからでしょうか、久留米市は救急車の要請から病院受け入れまでの時間が30分程度と全国でもトップクラスの速さで、このような地域医療の連携のよさは久留米大学の方針と無縁ではないでしょう。

今後も地域の医療機関同士の連携に貢献し、久留米の医療の質をますます高め、ひいては日本の医療を発展させていけたらと願っています。

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