妊娠・出産に関する周産期医療、不妊治療などの生殖補助医療、婦人科がん、女性ヘルスケア(予防医学の観点から女性特有の病気を取り扱うこと)など、さまざまな側面から女性の健康を支える産婦人科。「生命の始まり」に直接かかわる特性上、倫理的問題に関することなど向き合うべき課題が数多く存在しています。また、2024年度から始まる「医師の働き方改革」による周産期医療体制への影響についても国全体で考えていかなければなりません。2019年から4年にわたり、日本産科婦人科学会の第5代理事長を務めた木村正先生(大阪大学大学院医学系研究科・医学部 器官制御外科学講座 産科学婦人科学 教授)に、学会が抱える課題や使命、未来につなげたい思いなどを聞きました。
産婦人科領域での大きな課題の1つは、2024年度から本格的に始動する医師の働き方改革です。医師の時間外・休日労働時間の上限規制、宿日直の回数制限などにより、周産期医療体制に多大な影響が生じる可能性があります。
安全な分娩のためには、24時間365日体制で院内に医師が常駐していることが必須だと私は考えています。理想を言うなら、緊急帝王切開に備えて2人常駐しているのが望ましいです。しかし、働き方改革の諸条件下で医師常駐の体制を維持するには、1施設あたり少なくとも8人の産婦人科医を確保する必要があります。日本にある約2000もの分娩施設で医師常駐の体制を作るのに必要な産婦人科医は、単純計算で1万6000人。日本産科婦人科学会の会員、約1万7000人(2023年時点)全員がフル稼働で当直してやっと実現可能となりますが、無論そのようなことは不可能です。
ちなみに、年間分娩件数が日本とほぼ同程度のイギリスには、日本の半数ほどしか産婦人科を専門とする医師がいません。それでも周産期医療体制が維持できているのは、分娩施設が全国に110か所(日本の約20分の1)しかないためです。その1施設が年間約8000件の分娩を実施する一方で、妊婦健診と分娩を行う施設は別々です。また、現皇太子妃の出産時に日本との違いが話題になったように、ほとんどの人が産後1〜2日で退院するため、分娩施設が少なくても支障が出ないのです。
日本では「身近に分娩施設があるのが当たり前」という意識が世代を超えて根付いているため、今すぐにイギリスのような体制に変えることは難しいでしょう。しかしこのままでは、日本の周産期医療体制は崩壊してしまいます。出生率が年々低下していることも考えると、周産期医療体制を抜本的に見直すべき時期に突入しているのではないでしょうか。今の体制を変えることができなければ、落としどころを探っていくための議論を続けていくしかありません。
同時に考えなければならないのは子育ての問題です。分娩については、産後1〜2日で何も起こらなければその後トラブルが起こることはほとんどありませんが、子育てには長い年月を要します。子育て世代へのサポートやケアの体制をどうするか、学会も関与しながら国全体で考えていく必要があるでしょう。
2022年4月、約8年にわたって差し控えられていたHPVワクチン接種の積極的勧奨が再開されました。それから1年以上がたちましたが、接種率は推定で約20%未満と伸び悩んでいる状況です。その結果、最初にワクチンを接種した特定の年代だけ子宮頸がんの頻度が激減し、その次の世代になると激増するといった現象が、世界中で日本だけで起こるでしょう。ワクチンで子宮頸がんを予防できないとなると、検診をしっかり受けて前がん病変(がんになる前の状態)で発見するしかありません。今後はHPVワクチンの接種率向上と同時に、子宮頸がん検診の重要性も啓発していく必要があると考えています。
また、HPVワクチン接種機会が、性に関する問題や疑問を相談できるような場になればと思っています。接種対象となる10歳代の女性にとって産婦人科は縁遠い存在だと思いますが、私たちは女性の体や健康に関する専門家です。月経の問題やセクシャルデビュー(初めての性交渉)に関することなど、周囲には相談しづらいことを気軽に聞ける場にできればよいなと個人的には考えています。
東京都は今年、健康な女性が行う卵子凍結(社会的卵子凍結)に対する費用の助成案を発表しました。社会的卵子凍結自体は、妊娠可能性を残すためのよい選択肢ではありますが、助成金を給付することに対して私は懸念を抱いています。「卵子売買」のために、給付金を利用して卵子を凍結する人が現れる可能性はないでしょうか。高いお金を払ってでも卵子が欲しい人はこの世に大勢います。需要がある中で、元手なしで卵子という材を手に入れることができるのです。当然、卵子を売ろうと考える人が出てくるはずです。こうした事態を考慮せずに、安易に助成金を給付して果たして本当によいのでしょうか。
今や比較的簡便にできるようになった卵子凍結は、十数年前までとても難しい技術でした。また、出生前診断・着床前診断でも、以前は分からなかったことが高精度で調べられるようになってきています。新たな診断・治療技術が次々と登場するなかで、それを健全な形で社会に根付かせるためにはどうすればよいのか――。こうしたことを、これまでは学会が主体となり考え、ルールを定めてきました。しかし、今一度考えなければならないのが「そもそも学会がルールを決める主体でよいのか」ということです。
我々産婦人科医は、患者に検査や治療、情報を提供する“プレーヤー”です。学会が学会員に対してルールを作り患者が受ける医療を規制することは、たとえるなら相撲取りがふんどしを付けたまま行司として軍配を上げているようなものです。そんな競技を誰が信用してくれるでしょうか。これでは健全な医療は提供できません。
イギリスでは、政府や学会から独立した公的機関であるHFEA(Human Fertilisation and Embryology Authority:ヒト受精・胚研究認可庁)が、生殖補助医療やヒト胚研究に関する議論や監督行政、許認可などを行っています。ドイツやフランス、アメリカでも国の公認を得た機関が主体となり、性や生殖に関する課題に取り組んでいます。
日本には諸外国にあるような第三者機関が存在しません。本来ならば、客観的立場にある第三者機関が主体となり、私たち専門家集団だけではなく、あらゆる世代・性別の一般市民を巻き込んだ平場の議論をすることが重要でしょう。そして、このなかで学会がやるべきことは「政策提言」だと考えています。私たちは産婦人科医療に関するさまざまなデータベースを有し、諸外国の事情やモデルケースも把握しています。こうした情報に基づいた見解を国や社会に示すことまでが学会の役割であり、最終的な決定権は持つべきではありません。
今後の課題の1つは、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(Sexual and Reproductive Health and Rights:SRHR)の浸透です。これは「性と生殖に関する健康と権利」という意味であり、具体的には自身のセクシュアリティ(性)や子どもをいつどれだけ望むのか(生殖)について、自分で決めることのできる権利のことです。
SRHRは近年世界的なテーマとなっていますが、日本では一般市民のみならず、産婦人科医にもまだまだ普及していません。しかし日本でもSRHRに関する問題点が多数存在することから、当学会ではリプロダクティブ・ヘルス普及推進委員会を立ち上げ、さまざまな課題に取り組んでいるところです。私たちには、女性が息苦しくない世の中を作っていく使命があります。女性の幸せは男性の幸せでもあり、さらには社会全体の幸せにつながります。こうした連鎖を作っていくのが、我々学会の使命です。この思いは、2023年6月に就任した第6代目理事長の加藤聖子先生にしっかりと受け継ぎたいと思います。
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