かつて、がんは治る可能性の低い病気で、がんの告知は“死の宣告”に近いものでした。近年、がん治療は急速に発展し、“治る”可能性の高いがん種も増えています。それを推し進めているのが、基礎から臨床の各分野における世界中のがん研究者による発見や技術革新です。約1万4000人(2025年3月)の研究者らを擁する日本癌学会は、がん克服の実現などを目的に幅広い視点からがん研究を推進する学術団体です。2025年3月、理事長に就任した大島正伸先生(金沢大学がん進展制御研究所 腫瘍遺伝学研究分野 教授)に、世界のがん研究の現在地やそのなかで日本癌学会が果たすべき役割などについて伺いました。
近年の急速な研究の発展によって発がんの機構は分子レベルで理解されるようになり、臨床面でも革新的な治療法が登場し、がん治療の可能性はますます広がっています。いくつかの最新トピックスを紹介します。
がん研究の技術革新では、ゲノム解析の精度が上がってゲノムについての理解が深まるなかで、シングルセル解析*が始まり、さらに最近では空間トランスクリプトミクス**という解析方法が出現することにより、がんの多様性が非常によく分かってきました。
個々の細胞単位でがんの発生に関する相互作用などさまざまなことが分かるようになってきたことで、若いときにはすでに遺伝子に変異が生じ、正常な組織で細胞が進化してがんができる「クローン進化」の理解も進んでいます。
また、がんの研究モデルも、かつてはCDX(細胞株移植)モデル***が使われていましたが、現在は患者さんの体から採取した組織を使ったPDX(患者腫瘍組織移植)モデル****など、ヒトのがんに近いものを作る研究がここ数年で一気に進みました。
CAF(cancer-associated fibroblast:がん関連線維芽細胞)と呼ばれるがん周囲の微小環境の重要性も、よく分かってきました。かつては遺伝子変異によってがんが生じると考えられていましたが、先に述べた技術革新の結果、現在では遺伝子変異だけではなく炎症を中心とした微小環境との相互作用がカギを握っていることが明らかになってきました。
基礎研究では、免疫関連でさまざまなトピックがあります。免疫チェックポイント阻害薬が登場してから、がんの治療法が一気に変わってきたなかで、がん免疫療法が効く人と効かない人がいるのはなぜかという研究が非常に進んできています。たとえば、最近、特定の腸内細菌ががん免疫の感受性に関係するという研究結果が公表されるなど、免疫回避機構の理解は重要なテーマです。
*シングルセル解析:同じ組織の個々の細胞ごとに独立したタンパク質やメッセンジャーRNAなどの発現量のデータを取得して分析する手法。差異は機能発現に重要な役割を果たすことが示されている
**空間トランスクリプトミクス:組織のなかで、個々の細胞の空間的な位置情報と遺伝子の発現情報を対応付ける分析手法
***CDXモデル:細胞株(遺伝的な背景などが均一な細胞集団)をマウスへ移植して作成した腫瘍モデル
****PDXモデル:拒絶反応が起きにくい免疫不全マウスに患者の腫瘍組織をそのまま移植して作成する腫瘍モデル
臨床では免疫療法、がんゲノム医療、個別化医療の3つのキーワードがあります。免疫療法は、本庶佑先生の発見に端を発する免疫チェックポイント阻害薬によって、がん治療を一気に変えました。日本でもがんゲノム医療は始まっています。標準治療がなかったり終わったりするなどの条件を満たす患者さんはがん組織の遺伝子を調べて、遺伝子変異に合った治療をする、というのが個別化医療の考え方です。ただ、個別化のためには、がんを起こす遺伝子の変異に特化した薬のレパートリーがもっと増える必要があると考えます。
そうした進歩の一方で、この3つのキーワードにかかわる新薬は非常に高価なものが多いという問題があります。がん医療に携わる者としては、治療によって治る人と効果が出にくい人をきちんと層別化できる方法を開発することによって、より適切に治療が行われることを目指さなければならないと考えます。
また、アルファ線療法*は細胞に正確に到達させればかなり効果的に治療できるとされ、世界的に注目されています。日本でも研究開発に対する政府の協力やサポートが行われるなど、発展が期待されています。
世界中で多数の研究者、医師によってがん研究が精力的に行われており、米国癌学会年次総会(AACR Annual Meeting)に出席すると、これまでに述べたような新しい成果が毎年公開されるという状況です。日本の研究者も素晴らしい成果を発信し、世界をリードしている分野もある一方、こうした進歩に常にキャッチアップしていく必要があります。アメリカの素晴らしい点は、新しい治療法を開発しながら非常に革新的な基礎研究も同時に進められていて、そこから新しいものが生まれてくることです。日本でも治療法を目指した研究に加えて、“出口”を考えないで推進するような基礎研究にも、もっと力を入れてよいのではないかと感じています。
*アルファ線療法:アルファ線は飛程が細胞数個分しかないが、細胞を破壊する力が強い放射線。アルファ線を放出する物質とがん細胞に選択的に蓄積する物質を組み合わせた薬剤を投与し、体内からがん細胞をピンポイントで攻撃・破壊する治療法
このように新しい研究成果が積み重なっていくなかで、私たち日本癌学会の最も重要な役割は全国の会員に加えて国外の研究者とも研究の情報を交換し、連携し、交流する場をつくることです。研究交流こそが、新しい研究を始める原動力になると思っています。先にお話ししたがん研究の新しい情報の中には、私自身が欧米のがんの学会に参加したからこそ知ることができたものもたくさんあります。論文を読んだりネットをながめたりしているだけでは、そうした情報は得られません。世の中のがん研究がどう動いているかを知ってもらうために、私たちは学術総会を開いています。
また、日本癌学会の学術誌「Cancer Science」で研究発表の場を提供し、免疫やゲノム、がんのモデリング、治療薬などがんにかかわるさまざまな分野で研究者同士の交流を推進しています。
こうした形で、研究者同士をつなぐという私たちの使命を全うするためには「多様性」が重要です。現在の理事は18人中16人が男性で、まずは女性を増やしてジェンダーバランスをとっていかなければいけません。また、現在のがん研究は東京など大都市の研究機関を中心に推進されていますが、北海道から九州・沖縄まで各地のそれぞれの機関にがんの研究者は多数います。地域の多様性も尊重しながら、皆さんが集まり、交流する場を作ることも学会の役割だと思っています。
私は獣医学部出身で、大学生のころはアメリカでニワトリのがんから続々とがん遺伝子が発見されるという時代でした。自分でもそうした研究をしたいと思ってこの世界に入り、今に至ったという経緯があります。
がん研究の究極の目的はがんを治すこと。それには新しい治療薬を作る必要があり、創薬のためには新しいメカニズムや概念を見つけることが求められます。先にお話ししたように、さまざまな細かいことまで分かってきたなかで、ともすれば「もうやることが残っていないのではないか」と思う若手研究者がいるかもしれません。しかし、決してそのようなことはないのです。たとえば、がんが発症するのは遺伝子の変異で説明できますが、なぜほかの臓器に転移するのかはほとんど分かっていません。大きな森をながめ、ようやく森の中が見えるようになってきたと思ったら、中にはもっと複雑なことがあふれていた――というのががん研究の現状です。
基礎研究の方法論としては、さまざまなものが確立していますが、どういう材料を使い、どういうアプローチをするかは創意工夫や過去の経験、場合によっては直感も駆使する必要があるでしょう。そこでオリジナリティーを十分に発揮できるのが基礎研究の醍醐味です。
研究には失敗も多い、というよりも、失敗のほうが多いのですが、それでも世界で誰も見たことがないものを自分が見られたときの興奮、喜びを味わえるのが魅力ではないかと思います。それはサイエンス全般に言えるものですが、喜びの先に治療薬の開発があり、そういった社会的な意味もかみしめながら基礎研究を進められるのは、がん研究ならではだと思います。
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