新型コロナウイルス感染症(以下「新型コロナ」)のパンデミックが2020年に始まったばかりのころ、「安心して暮らせるようになるためにはワクチンと治療薬が必要だが、登場には年単位の時間がかかるのではないか」といわれていた。予想を覆し、同年12月にはFDA(米国食品医薬品局)が2つのmRNAワクチンの緊急使用を許可。そのうち1つを開発したのが、当時日本ではほぼ無名の製薬ベンチャー、モデルナだ。このほど東京で開催された第16回ITヘルスケア学会年次学術大会で、モデルナ・ジャパンの鈴木蘭美代表取締役が、スピード開発を支えたモデルナの“デジタル戦略”などについて講演した(座長:井上祥・メディカルノート代表取締役)。その要旨をお届けする。
弊社のミッションは「mRNA(メッセンジャーRNA)医薬で人々に最大の可能性を」というものです。英語からの和訳で、「可能性」は原文で「Impact」という単語を使っています。多くの方は、mRNAの歴史が新型コロナのワクチンから始まっていると思っているかもしれませんが、科学・医学の歴史を紐解くと1960年代から基礎研究は始まっています。その中でも、たとえば日本の古市泰宏先生(国立遺伝学研究所)の「キャップ構造の発見」など、多くの日本人が研究に貢献してきました。長い歴史がありながら、ほかの作用機序の薬と比べると医薬品として活躍できない時代が続いてきました。
CEOのステファン・バンセルが「mRNAによって世界が大きく変わるのであればやってみよう」と起業したのが2010年です。日本支社は米国本社の100%子会社で2021年4月に設立、私は2021年末に社長に就任しました。その間に日本でも武田薬品工業様の多大な協力のもと、モデルナワクチンの接種が始まり、2022年には製造販売承認を弊社が承継しました。
2023年1月に「オリシロジェノミクス」という会社を買収しました。立教大学の末次正幸教授が2018年に創業したスタートアップで、弊社が創業してから初の買収案件です。「“ベストサイエンス”を探せ」という号令がかかり、世界中でさまざまな技術を評価した中で選ばれたのが日本のスタートアップだったということを、大変うれしく思っています。
オリシロは変革的な技術を持った会社です。通常、ワクチンを作るには細胞を使ってプラスミドというDNAを大量に増殖させる必要があります。オリシロが独自に開発した酵素を用いると、細胞が不要になるうえに、ワクチンの製造工程を約2週間短縮できるという画期的なものです。医薬品製造業において必要なGMP(Good Manufacturing Practice)という製造管理および品質管理の基準で、製造工程にこの酵素を埋め込むことがFDAから認められれば、世界の多くの国でも当局が承認するのではないかと期待しています。もしそうなれば、日本で発明された酵素が世界中のワクチン製造の工程で必要不可欠なステップになる――これが実現できることを我々は目指しています。
「モデルナのマインドセット」というものがあります。12項目の最後は「デジタルの技術をあらゆる面で活用します」となっています。
モデルナは2つの意味で「デジタルな会社」だと考えています。
1つは、創立した時から意識的に全てをデジタル化しています。簡単な例では、弊社の工場では誰も紙とペンを持っていません。メモを含めて、いつか、誰か必要な人が見ることができるように全てがデジタル化されています。通常だと工場、研究所、品質管理、臨床開発などにデータベースが1つずつバラバラに存在しますが、弊社は全ての過程のデータベースにITの横串を刺したうえでAIに解析させることによって、人間では見えないもの、気が付かないことを教えてくれるような仕組みを、かなり以前から構築しています。まだ構築中なのですが、「複利効果」でAIが教えてくれる内容、量やスピードがどんどん高まっていると感じます。
人材確保の面では、今年になって米ワシントン州シアトルにテクノロジー部門を立ち上げました。GAFAM(Google、Apple、Facebook、Amazon、Microsoft)が昨年(2022年)末ごろから多数の優秀なエンジニアを解雇しているというニュースを目にしたと思います。そうした方々に、ぜひわが社に来て一緒に薬を作りましょうと、すでに100人規模のヘッドハンティングが始まっています。
今年(2023年)5月に、全世界で社内用ChatGPT「mChat」(生成AI)を開始しました。社内用なので機密性など心配せずに安心して情報を入れることができ、その質問をさらにAIが学ぶという循環が始まっており、最近はシステムの成長をかなり感じます。
次にもう1つの「デジタル」についてお話します。
2023年8月時点で、私どものパイプライン、新薬候補は47あります。感染症のワクチンだけでなく、がんや希少疾患など多岐にわたる領域でさまざまなmRNA新薬候補を開発しようとしています。これだけ多数の開発を比較的短時間で進められているのは、mRNAが特別なものだからだと思います。
弊社内ではmRNAを「情報分子:Information molecule」と呼んでいます。たとえて言うなら、mRNAはiPhoneのようなプラットフォームです。どのようなタンパクをどのような細胞・臓器でどれだけ長く、どう表現していくか――をプラットフォーム上で動くアプリのように位置づけ、それぞれを「モダリティ」と呼んでいます。モダリティが確立すると、その上にさまざまな病気を乗せていくという創薬モデルなので、短期間に多数のパイプラインを作ることができたと思います。
歴史を紐解くと、新規のワクチンを作るには平均10年ほどかかってきたそうです。今回の新型コロナでも「10年かかる」という声もありましたが、mRNAワクチンは1年未満で実現しました。ただ、それで十分ではありません。WHO(世界保健機関)などは「100日以内にワクチンが提供できていれば、新型コロナで亡くなった方の90%以上の命が救えただろう」といっています。
mRNAは情報分子という位置づけなので、技術的には100日以内にワクチンの開発・製造はできます。ただ、望まれている作用の有無、安全性などについて、各国の当局と確認する制度が必要です。その部分でどれだけ時間がかかるのかはまだ固まっていません。
このプラットフォームがあれば、次のパンデミックが起こったとしてもmRNAの配列をデジタル的に変えるだけで、きわめて迅速にワクチンを提供できるのではないかと期待しています。私たちは、情報が人の命を救えるということをいつも、ひしひしと感じています。
最後に、弊社がリアルワールドデータについて最近行った意識調査の結果をお話します。今年(2023年)の初めに約1000人の医師と3000人の一般の方を対象に日本で行いました。
自身のデータが活用されることについて、「積極的な活用を希望」としたのは、「そう思う」「ややそう思う」を合わせて医師が約60%、一般が約45%でした。一方「不安がある」としたのは医師、一般とも約40%いました。自身のデータを提供してもよいと思う組織について複数回答で尋ねたところ、一番安心できるのが医療機関、ほかに大学・研究機関、国も比較的高いのですが、製薬企業に関しては過半数の方が「提供してもよい」とは考えていません。健康情報の活用は製薬企業単独では無理もしくは非効率で、産学官民の組織的な仕組みが必要ということだと思います。
自身が使用する医薬品・医療機器に関する海外と日本のデータについて医師、一般とも4分の3以上が「日本のデータのほうが安心感がある」「それに近い」と考えています。日本の医療情報があれば安心するという気持ちは、自分の医療情報を提供してもいいという気持ちにもつながっていくと信じています。
鈴木蘭美(すずき・らみ) ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで医学博士号取得、エーザイ株式会社事業開発担当執行役、ヤンセンファーマ株式会社事業開発本部長・メディカルアフェアーズ本部長、フェリング・ファーマ株式会社最高経営責任者兼代表取締役などを経て2021年、モデルナ・ジャパン代表取締役社長就任。
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