医療の進歩に欠かせないのは、これまで治療が難しいといわれてきた分野での治療法の開発だ。古くは天然痘や結核から近年ではインフルエンザまで、新しい治療薬によって我々が受けた恩恵は計り知れない。京都大学の山中伸弥先生が発見しノーベル生理学賞を受賞した「iPS細胞」による治療が実現すれば、再生医療は飛躍的な発展を遂げるだろう。
近年は、特にがん医療の分野での新薬や治療法の開発が盛んに行われている。がんの治療薬や治療法の開発は難しいとされているが、近年は免疫チェックポイント阻害薬や分子標的薬、免疫治療薬などの画期的な治療薬が続々と登場し、それらを使った治療法の研究も進んでいる。そんながん治療の開発研究について、武藤学先生(京都大学大学院医学研究科腫瘍内科講座教授)に伺った。
がんは、治療薬や治療法の開発がもっとも難しい病気の1つです。その原因は主に2つあります。
まず第一に、がんは遺伝子や分子の異常が絡み合った複雑な病気であるためです。これらの異常がどのようにがんを引き起こすのかは個々の患者さんごとに異なり、1つの原因に絞り込むことが難しいため、治療薬によって完全にがんを消滅させることが非常に困難なのです。
第二に、仮にがんの原因となる遺伝子や分子を特定したとしても、それをピンポイントで破壊することが難しいためです。中には、がん細胞を壊すための治療によって正常な細胞に影響を与えてしまう薬もあるでしょう。
このような理由から、安全性と効果を見込めるがんの新薬や治療法の開発は至難の業(わざ)といえます。とはいえ、がんの克服に向けた研究開発の必要性は言うまでもなく、世界中で研究開発が精力的に行われています。
その結果、近年は京都大学の本庶佑先生が発見した免疫を抑制するタンパク質「PD-1」などを利用する「免疫チェックポイント阻害薬」や、特定のタンパク質を標的にがんを攻撃する「分子標的薬」など、新しい治療薬が続々と登場しました。また、それらを使った治療法の研究も盛んに進められています。
まず、新薬の開発過程について説明しましょう。新薬の開発は、効果や安全性を確認する試験を段階的に行いつつ、厳密なプロセスを経て進められます。
初めに、「基礎研究」を行って効果の見込める薬剤を選定します。その後、ヒトの細胞やネズミなどの動物を対象とする「非臨床試験」を行い、安全性や効果を検証します。
非臨床試験で安全性と効果が確認できれば、今度はその治療薬をヒトに投与する「臨床試験」を行います。臨床試験の中でも、特に国に医薬品としての承認を得るための検査は「治験」と呼ばれ、通常は以下の4つの段階に分かれています。
・第I相:少人数の患者さんを対象に、薬の安全性や副作用を確認します。徐々に薬の量を増やしていき安全に投与できる量を決めます。
・第II相:第I相で確認した投与量での有効性と安全性を詳しく検証します。
・第III相:現時点でもっとも効果があるとされている薬と比較して「ランダム化比較試験」を行い、効果を検証します。
・第IV相:市販後の安全性を評価します。
なお、治験を始める前には対象者の参加基準、薬剤を投与する人数や調査期間などを設定し、より正確なデータを得られるように努めています。第III相試験で有効性と安全性が確認されれば、製薬企業が新薬の承認申請を行い、国に承認された場合、薬としての値段(薬価)が決まり、ようやく治療薬として使えるようになります。
新薬といっても必ずしも既存の治療法より効果が高いわけではなく、たとえ従来の治療薬と効き目は変わらなくても、毒性が低いという理由で新薬が生まれることもあります。また、がんの治験の段階では基本的に合併症がない患者さんを対象としますが、市販されたあとは、合併症がある方を含めてさまざまなシーンで使用されるため、リリース後も慎重に安全性を確認していくことになります。
一説によると、新薬の候補が治験に進むのは約3千分の1、さらにその中で治験を実施しても実際に新薬として承認されるのは10分の1程度といわれています。1つの薬が完成するまでには多数の患者さんや医療関係者の協力のもと、長期間にわたる基礎研究や臨床試験などが必要となります。そのため新薬の開発には多大なコストがかかりますが、そのぶん医療の進歩に大きなインパクトを与える重要な取り組みといえるでしょう。
近年、多くのがんの治療において、免疫の力を利用してがんを攻撃するがん免疫療法が取り入れられています。しかし、実際にこの治療法でがんに効果が認められているのは1~2割ほどに止まります。
また、がん免疫療法に使用する免疫チェックポイント阻害薬は、効き目のある患者さんには長期的な有効性が認められている反面、最初の投与で効果がないケースも多々見受けられます。そのため、分子標的薬や従来の抗がん薬などを併用する「複合がん免疫療法」によって、その効果を引き上げる治療が主流になっています。
しかし、特に抗がん薬を使用した治療法は、治療後に患者さんの免疫力が落ちてしまうという問題を抱えています。したがって、複合がん免疫療法は短期的な視点で免疫が低下してしまうことによる人体および治療効果への影響を慎重に検討する必要があります。
こうした課題に対し、私たちの研究チームでは抗がん薬に代わって光に反応する「光感受性物質」を用いた光線力学的治療法を免疫チェックポイント阻害薬と併用する研究を進めています。この治療法は、腫瘍に取り込まれた光感受性物質に対しレーザーを照射することで、がん細胞を選択的に破壊します。正常な組織にはレーザー照射しないため、局所はもちろん、全身の免疫力や健康状態にほとんど影響を与えない点がメリットといえるでしょう。
光線力学的治療法は、従来の放射線治療と比べてもメリットがあります。放射線治療では骨髄へ照射された場合「骨髄抑制(骨髄の造血細胞のはたらきが悪くなること)」が起き、免疫力が低下してしまう場合がありますが、光線力学的治療法においては局所の治療効果のみで、骨髄抑制は起きないため免疫力を維持することができます。また、放射線治療では目標とする腫瘍を破壊した際、放射線を当てていない病巣の腫瘍も縮小するという現象が確認されています。これは「アブスコパル効果(遠達効果)」と呼ばれますが、同様の効果は光線力学療法でも確認されています。したがって、光線力学的治療法では、アブスコパル効果を期待しつつ、免疫力が減衰しないため免疫チェックポイント阻害薬の効果を維持できる可能性があります。
すでに動物実験でその有効性を実証しており、現在はヒトを対象にした治験を進めています。この治療法が実用化されれば、抗がん薬を使わない新たながん治療法になると期待しています。
もちろん、患者さん一人ひとりの状態によって効果は変わると予想されますので、今後、基礎研究や臨床試験などを通じてメカニズムの解明に努めます。研究が軌道に乗れば、より精密な治療開発にもつながるのではないかと期待しています。
近年、日本では治験の遅れが問題視されています。特に、治験の遅れにより欧米で開発された新しい治療薬が使用できない状況は「ドラッグロス」と呼ばれ、適切な治療を受けられずに苦しむ患者さんが多くいます。
治験は新薬の開発において、非常に重要な役割を果たしています。治験に参加することで、未承認ではあるものの安全性に配慮した治療を受けることができ、がんの治療法の進展に貢献することができます。治験の実施には、患者さん一人ひとりの協力が欠かせません。
治験に対して不安を感じる方もいるかもしれませんが、現在は厳格な安全管理が行われており、リスクは極力抑えられています。また、治験には、ほかのがんや病気に使われる薬の転用試験もあり、これらは安全性が確認されている場合が多いため、参加しやすいものもあります。
治験は社会的にも非常に意義のある取り組みです。よりよい医療のためにも、治験にご協力いただける方が少しでも増えてほしいと切に願っています。
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