21世紀に入って創薬をめぐる環境が大きく変化している。創薬の中心は従来の低分子医薬品*からバイオ医薬品**へと移り、製薬企業だけで自己完結する創薬手法から、大学などの研究機関やベンチャー企業から創薬の“種”を導入する「オープンイノベーション***型創薬」への移行が進んでいる。このような環境で、日本の創薬力を強化・加速させるためには「創薬エコシステム」の構築が重要といわれる。創薬エコシステムとは何か、それが求められる背景は――。研究開発志向型の製薬企業70社が加盟(2024年4月時点)する日本製薬工業協会(以下、製薬協)専務理事、森和彦さんに聞いた。
*低分子医薬品:分子量がおおむね500以下で化学合成によってつくられる医薬品
**バイオ医薬品:遺伝子組み換えなどバイオ技術を応用して製造される医薬品
***オープンイノベーション:製品開発などで自社以外の異分野、異業種の組織や機関が持つ知識や技術を取り入れること
「創薬エコシステム」とは、製薬企業とアカデミア、バイオベンチャーなどのプレーヤーが連携し、ヒト・モノ・カネの3要素をつなげる仕組みです。製薬協は、日本の創薬力育成のために日本に適した創薬エコシステムの構築が不可欠と考えています。
それが必要になった背景には、21世紀に入ったころから創薬のパラダイムが大きく変わり始めたことがあります。
かつての抗菌薬づくりに代表されるような創薬の方法は、とにかくいろいろな物質をかき集めて、その中から“当たり”を引くという宝探しのようなやり方でした。次に「こういった化学構造のものが薬になる」ということが分かると、化学工業の一分野として製薬産業が育つ時期が続きました。日本の企業は1つの会社の中で技術を突き詰めて効率よく薬をつくるのが得意で、非常に伸びました。スイスやドイツなど、精密工業製品をつくることが得意な国でも同じような特徴の医薬品産業が育ちました。
しかし、このような化学工業での形態の新しい技術と、薬として使えそうな標的はほぼ出尽くした感があります。たとえば、血圧をコントロールするために必要な薬はだいたいそろっていて、新薬がこれ以上必要だろうかという話になっています。また、糖尿病の薬にしても、糖の排出を促すSGLT2阻害薬のような薬が出たあたりで大規模な新薬開発はだいたい終わりを迎え、新しいアプローチが必要という状況になっています。
一方で、いまだに治療薬がない病気はたくさん残されています。がん治療についても限界が見え、2002年1月のニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)に「従来の方法で作った抗がん薬は、どんな薬を組み合わせても治療成績はあまり伸びない」というエディトリアル(論説)が掲載されました。
同じ年の7月に、日本ではゲフィチニブ(商品名「イレッサ」)が承認され、新たな抗がん薬としての分子標的薬*の時代が幕を開けました。さらに、欧米ではもう少し前からになりますが、日本では2000年を過ぎたころからバイオ医薬品である抗体医薬**の登場が急激に増えています。
分子標的薬の登場により、薬の作り方は、病気のメカニズムをきちんと解き明かして、どういう物質でどこをアタックすればよいのかを考えて薬の分子をデザインするという方向に向かうようになったのです。
そのようになると、ケミストリー(化学)だけではなくバイオロジー(生物学)やそれを基にしたメディカル(医学)など、さまざまな分野について理解しないと新薬が作れなくなりました。2000年代初頭から10年ほどかけて、製薬企業は専門性が違う人たちの力を借りる必要性があるといったように意識が変わってきました。
そうした過程で「オープンイノベーション」のアプローチ、モダリティー***の方向性拡大の必要性がしきりに言われるようになりました。つまり、製薬業界としては今まで知らなかった分野の専門性を持った方々と組まなければ本当によいアイデアの薬が出にくくなってしまったのです。たとえば、アカデミアの研究と製薬企業によって開発されたがん免疫療法のニボルマブ(商品名:オプジーボ)が、オープンイノベーションの産物であることはだれの目にも明らかです。そのころから、日本国内の閉じた会社の閉じたシステムでは立ち行かないということを皆が強く認識し、取り組み始めました。
*分子標的薬:病気の原因となっているタンパク質など、特定の分子にだけ作用するよう設計された医薬品
**抗体医薬:免疫機能を担う抗体を利用し、細胞表面の目印となる抗原を狙い撃ちすることで高い効果が期待できる医薬品
***モダリティー:医薬品の創薬基盤技術の方法・手段の分類
こうした状況になると、さまざまな関連分野の研究とビジネスをつなぎ合わせて連携する必要性が生じます。多くのプレーヤーが相互に関係しあいながら、全体として調和をとりつつ発展していくといった考え方をせざるを得なくなったのです。
同様の変化は、欧米では日本よりも早く2000年代初頭ごろから動いていて、2010年ぐらいになると創薬のパラダイムが「ニッチな分野に、強いサイエンスでしっかり効く薬」を作る方向に舵が切られています。
そのような創薬では、エコシステムという考え方に立ってさまざまなプレーヤーが連携・協力して動きます。ただ、特に初期段階のスタートアップ企業ではサポートがなく成り行き任せにしてしまうと突然倒れてしまうこともあり得ますから、エコシステムを維持できるよう、環境を整える必要があります。世界の創薬がそのような方向に向くなかで、日本でも同様の発想を持って取り組むことが必要ですし、製薬協としてはさらに取り組みを強化していく必要があると主張し続けています。
病気のメカニズムを研究することに関していえば、日本の基礎研究は世界的に低いレベルではありません。ただ、日本のやり方で気がかりなのは、そうした研究をしている大学の先生が自分でベンチャー企業を作り、研究をしながら会社の経営をするのがよいといわれていることです。しかし、こうしたやり方では研究のリソースを経営のために浪費することになってしまいます。アメリカでは、創薬ベンチャーはビジネスマンがアカデミアのアイデアの一部を「ビジネス」という切り口で取り上げて起こすのが一般的で、アカデミアの人が自分で起業するというやり方はメジャーではありません。
日本でも、研究者は研究に専念し、そこで解明された成果をどんなモダリティーでどんな製品にするかはビジネスの世界で取り組んでいくことを意識したほうがよいと考えています。
アカデミアにあるシーズを「実用化」というゴールにつなげるためには、必要な要素がそろわなければなりません。たとえば、マウスなどの実験でうまくいったとしても▽ヒトの体の中で起きているメカニズムの解明▽どんな物質でどこにアプローチすべきかの具体的なアイデア▽想定したとおりに働き、作用が出ていることを評価する評価系――の3つの要素がそろわないと、ヒトの薬として実用化の目算がたたないのです。この3要素を1人の研究者が全部そろえるのは難しいので組み合わせの話になるのですが、研究分野が離れているため、パートナーとなる相手がどこにいるのか分からないということも往々にしてあります。
そうした課題を解決していくためのファシリテーションが大事で、アカデミアの段階で実用化を志向する方々に対しては、お手伝いがあったほうが絶対に伸びると考えています。
創薬エコシステムの改善でもう1つ重要な点は、患者さんのアクセスをもっと早く、望む形で実現することです。
そのためには2つの切り口があると思っています。
日本では基礎研究の段階で「新しい発想で病気が治療できる可能性が見えてきた」という発表が結構あります。それは患者さんにとって希望の光になっているのは事実ですが、「まだマウス実験のレベルで、すぐに病気が治るわけではない」といったことを踏まえて情報を発信する必要があります。製薬協でも、基礎研究の結果を正しい位置づけと正しい解説で伝えることによって貢献できることがあるだろうと、話し合いを始めているところです。
開発が進んで治験の段階になると、患者さんたちは新薬の恩恵を受けられるかもしれない一方で治験参加にはリスクもあります。治験に入る段階で患者さんのアクセスが容易になるような方法をもっと積極的に取り入れたほうがよいと考えています。分散型臨床試験(Decentralized Clinical Trials:DCT)は、デジタル技術を使って、患者さんが来院しなくても自宅からwebを経由して治験に参加できるようにする方法です。こうした方法を積極的に取り入れていくことで、患者さんが主体的に治験に参加できるような形になるのが、創薬エコシステムが目指す1つの姿と考えます。
DCTでは、患者さんの安心と安全が保たれ、よいサービスを提供するためにDXのバックボーンが非常に重要です。その際、DCTをサポートするシステムや情報科学などの領域の専門家が医療や基礎研究などのプロセスに関する知識を習得し、理解したうえで参加してもらうことに意味があり、よい関係が作れるのです。
かつて欧米と同様に治験を行うため、CRC(Clinical Research Coordinator=治験コーディネーター)という新しい職種を日本でつくったのが20年ほど前になります。それと同様に、これからはDCTやデジタル化した治験を行うための新たな人材づくりが必要になってくるでしょう。
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