市川靖史先生(横浜市立大学附属病院臨床腫瘍科診療科部長・主任教授)
がんと診断されると、医師からさまざまな説明を受けることになります。まずはがんの病状です。病状とは、がんの場所、大きさ、転移のあり・なしなどです。これらに加えて、病理の結果(がんの一部を採って<生検という>顕微鏡検査で診断すること。後の治療法を選ぶ際に大切な診断になる可能性もある)など、こまごまとしたたくさんのことが「病状」に含まれます。これらのことはだいたい1枚の紙にまとめて渡されます。
続いて治療の方法です。これは手術や抗がん剤治療、放射線治療、あるいは抗がん剤治療をしてから手術なのか、手術にしてもおなかを開けるのか内視鏡を使うのか、ロボットかなど、非常に多くの説明になると思います。これらについても1枚の紙になって渡されることが多いと思います。
このように、病状と治療法の説明だけでも膨大な量の情報です。そして、患者さん自身はこれらの情報を踏まえ、「どんな治療を受けるのか」決断する必要があります。医師は患者さんに「次回までに決めて来てください」と伝えます。おそらく手元には2枚の紙。「決めてください」という割に、患者さんに渡されている情報は極端に少ないようにも思えます。
私が医学生であった1980年代、日本は「がんを告知しない時代」でした(私が生まれた1960年代はアメリカでも「がんを告知しない時代」だった)。当時、医学教育の中には「がん患者さんにがんを告知する」という授業はなかったのです。
今は「悪い知らせを伝える」という授業がありますし、患者さんへの説明はインフォームドコンセントと名前を変えて、単なる説明ではなく、医療者の説明を患者さんが聞いたうえで、患者さんが自らの自由意思に基づいて医療者と診療の方針を合意する、という時代になりました。合意の中には方針に同意することも、同意しないことも、またほかの人の意見を参考にすることも含まれます。
患者さんから見ると、診療を受ける際に「医師の決定に同意することしかできない時代」から、「自分の自由意思を医師と合意できる時代」になりました。ただ、現在それが果たされているかと言われれば、十分ではないと思います。その理由の1つが、患者さんが自由意思で確認できる自分の病気に関する情報があまりにも少ないことではないでしょうか。
患者さんが「決めてください」と言われる場面はその後も続きます。がんの治療後は、診察・血液検査・レントゲン検査などを定期的に行い、再発あるいは病状の悪化がないかを確認するための診療を、少なくとも5年は受け続けることになります。そして何かあれば(残念ながらよくないことも多い。再発や残っているがんが大きくなったなど)、再び「決めてください」と言われることになるのです。
最近では、血液検査の結果を印刷して渡してくれる医師は増えています。しかし、これまで自分が何カ月かに一度受け取るCT検査の画像を全部持っている人はほとんどいないでしょう。自分のがんがどのように変わり、どのような治療を受けてきたのか。医師が持つカルテ(現在は主にコンピューターの中に入った電子カルテ)にはこれらの情報が入っていますが、患者さんはこれらの情報の一部を渡されるだけで「決めてください」に応じなくてはなりません。
もしも患者さんがカルテの情報を常に手元に持っており、折に触れて見ることができたならば、自分のがんに対する理解はもっと深まるでしょう。もっとしっかりと医師の「決めてください」に応えることができるのではないでしょうか。そして、時に問題となる根拠のない治療法に「だまされて」しまうことや、「流されて」しまうことも少なくなると思います。
もう1つ、それでは医療者の持っているカルテは十分なものでしょうか。そこにはもちろん患者さんのがんに関する情報の全てが入っています。しかし、その時々の治療に対する患者さん自身が感じたこと、選択した治療法のどこが大変で、どのくらいのダメージがあって、どこまで回復したのか、という患者さん自身の声がカルテの中に十分記録されているとはいえません。
患者さんが2週に1度あるいは1カ月に1度医師の元を訪れるとして、その間の患者さんの状態が、ほんの数行のカルテで分かるでしょうか。患者さん自身も自分のカルテにさまざまなことを書き込んでよいのではないかと考えます。そうすれば、10年前の体力、がん治療を始めたときの体力、今の体力がこの書き込みからつぶさに分かる。これは医療者にとっても最善の治療法を考えるうえで非常に重要なことです。
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皆さんは自分の母子手帳を持っていますか。子どもの頃の自分の健康に関する全てのデータもこの一部であるべきです。幼い頃どんな病気にかかり、そのときの処方薬は何であったか、自分の健康に関する全データが入った記録があれば、これはあなた自身の体の歴史書であり、折に触れてこれを読むことで、現在の自分に必要な治療法を「決めること」ができるのではないかと思います。
検診の結果もそうです。この記録の中に検診で受けた血圧、血液検査の結果が記録されていて、それぞれに対する注意も書き添えてあれば、数十年にわたる自分の健康の歴史となります。今でも検診を受けていれば、報告書が戻ってきていて、さまざまな注意が書かれているはずです。しかし、これを長年にわたり保管し時々見ている人はいないと思います。もしも、これまで受けてきたマンモグラフィー(乳房X線検査)を年代順に全て見ることができれば、自己触診の際に役立つかもしれません。病気の予防という観点からも、このようなデータを自分で持ち、時々見て考えるのはとても大切なことなのです。
がんの話に戻ります。最近では治療に役立つ可能性のあるがんの遺伝子異常を調べる「パネル検査」にも保険が適用され、必要のある方々に行われ始めています。今後はそれぞれのがんの特徴がさらに細かく分かるような種々の検査も登場すると思います。このような検査結果についても手元に持って自分で確認する時代が到来しているのではないでしょうか。
もちろん、CT検査の画像なんて見ても分からない、血液検査や遺伝子検査の結果なんてちんぷんかんぷんだという方もいるでしょう。しかし、患者さんが手元に自分のデータを持ち、分からないことを明らかにすれば、それに答えるシステムもできてくるはずです。それがAIであるのか人であるのかはまだ分かりませんが、質問に答えてくれる相手ができてくるのは間違いないと思います。
私たち医療者としても、患者さんに「決めてください」と言うのであれば、十分な情報を提供することなく従来の「先生にお任せします」という文化の上に成り立った診療を続けていないか今一度振り返る必要があるでしょう。治療法が多様化し、患者さんの価値観・人生観を尊重した治療選択が望まれる今、自分たちの診療のあり方が適切かどうかを客観的に見直すことは急務と捉えています。
スマホのアプリの1つに一人ひとりの健康記録が登場し、みんなが時々それを見て、自分の健康のこと、かかってしまった病気の治療について考えるという時代はすぐそこまで来ていると思います。
私が専門とするがん医療の中でも目覚ましい技術革新が進んでいますが、一方で、医療の現場で患者さんの多様な状況に応じて適切に実践することが難しい場面もあります。
そのような課題を解決するべく横浜市立大学では、人材不足が目立つゲノム医療、希少がんおよび小児がん医療、ライフステージに対応したがん対策について、大学間の連携教育の発展に努めています。たとえば、横浜市大がんプロ(がん最適化医療を実現する医療人育成プログラム)におけるがんを横断的に診断できる専門家の育成プログラムの実施や、市民・医療従事者に向けたがんに関するセミナーの開催、E-Learningの配信、YouTubeでのがん情報の発信などを行ってきました。
このような活動が、多様かつ複雑ながん専門診療が一人ひとりの状況に応じて最適化される「全人的医療」の実現への一助になればと考えています。
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